性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

高速バスでルーマニアに行こう。

道を歩いていたら木曽路の送迎バスとすれ違ったんだけど、その瞬間にBUMP OF CHICKENの「乗車権」が脳内で再生された。

排気ガスを吐いて腹ぺこ(の客を乗せた)バスが来る夢の先(木曽路)に連れてってくれんだどうだろう?

木曽路バスは一族が離散している(絶滅ではなく不仲が原因で大体ピンピン生きているはず。死んだら流石に連絡が来るシステムなので今のところ生きてるという事になっている)のでもう何年も乗っていない。俺には乗車権がねぇ。俺のために停まってくれるはずもねぇ。自分の中に藤原基央の才能が完全に無いことが判ってしまって辛い。あんなにBUMP OF CHICKEN聴いてきたのに。何を受け取った気になっていたんだ。のうのうと生きてる場合じゃなかった。いや、そこそこ頑張ってきたつもりなんだけどな。

辛くなってきた(その事実及びこの話題において話が半歩も進行出来ないということが)から木曽路の話に戻す。

木曽路木曽路な。いいよなぁ。

この先に人生、法事なんかでその木曽路に行くことはないのかも知れないと思うと寂しく感じる。なんて事を書きながら頭の中で「別に木曽路自体は普通に行けばいいだけは?」と気付いてしまった。これではただバスに乗りたいだけの人に成り下がってしまっている。だが事実でもある。認めるのも虚しいがそういう面も多少はある。多少は。

しかし何のバスでも良いという訳ではなく、木曽路のバスという点を評価して頂きたい。

数多のバスの中で、僕はあくまで木曽路のバスに乗りたいんである。知らんけど。

叶わぬ願いを抱いた途端、何だか物語の主人公になった気がするから不思議だ。照れるぜ。

次回「自動車教習所の送迎バスにも乗ってみたかった」デュエル、スタンバイ!

 

先日、万博公園にある民族博物館へ「ルーマニア近代の知識人と民衆」というテーマの講義をルーマニアモンテビデオ以外のルーマニアに関する知識を持ち合わせていない身でありながら受けに行った。厳密に言えばルーマニアモンテビデオルーマニアの近代は愚か歴史に特に関与していない。厳密に言わなくても関与していない。ルーマニアモンテビデオルーマニア近代の知識人も民衆もいない。そういう曲もない。要するに何に興味があるかも自分で解らない状態でありながら、ルーマニアというこれまで知らなかった国のことを教えて貰えるなら行ってみようかな、くらいのノリで行った。

ただこの講義(みんぱくゼミナールというイベント名がついている)の凄い所は、先生の話が滅茶苦茶分かりやすいのでそんな状態で参加しても大変に勉強になって楽しいんである。

月一で開催されているので興味のあるテーマの回に行ってみることをオススメしたい。

この講義、参加するとポイントカードにスタンプが捺印され、10個貯めると10毎に講義前に壇上で表彰されるということで毎月参加してスタンプを貯めている人も沢山おられる。

お年寄りの方なんか290回とか参加して表彰されている猛者もおり、それは通い始めてから皆勤賞でも24年かかる偉業で、その凄さを身を以て知っている他の参加者からどよめきが起こる。羨望なのか憧れなのかはたまたちょっと引いているのか。何にしても素晴らしいことである。ドラッグストアの様にポイントを界王拳が如く倍増させたりしないシビアなルールで積み重ねたとんでもなく高い名誉ある塔である。

まぁ受賞者の中には講義中爆睡している方も稀におり、どっちが目的になっているのか若干怪しいランカーがいるのも事実ではあるものの、行ってから興味があるかどうか判断するという知識への飛び込み方はかなり正しいと思うので見習いたい。(タイトルやちょっと調べただけで興味があるかどうかなんて正直判断がつかないので)

知識人と民衆の立ち位置、関係性、線引きなどを通してルーマニアの移り変わりを通して自分たちの国のことなんかも考えたりして楽しかった。

そもそも民族博物館は展示物の量が凄まじく、建物も最高なので大阪府民はもとより関西在住の皆さんには絶対に行って欲しい。ワクワクしてしまう。施設の重要性からして無いとは思うが、万が一、財政難で何だかんだなどという事になったら困るので切にお願いしたい。

ただ情報の濁流過ぎるのでデートなどには向かないと思う。そういう人たちはエキスポシティーの観覧車に乗れ。回れ。

 

またー。

ソルティードッグの塩多めで!!!

寒さに背中を押され、ようやく衣替えをするついでに昨年の自分が大鉈を振るい、来季も戦力として換算できると踏んだ服を引っ張り出してきた疲労感でハイになり、ここまで疲れてるんだからついでに何やっても同じだろうと全部着てみた結果、ユニクロのニットの着心地がゴワゴワになっていて「お前、去年はあんなに優しかったのに一体どうしちまったんだ…」と滅茶苦茶寂しい気持ちになってしまった。傷んでもないから滅茶苦茶着るけど服も人間と同じように休む期間が長いと鈍ってしまうんだろうか。ローテの一角を託すには些か不安がある。

しかし、この一度全部着てみるというのは割と大事なことなのではないかと感じたので人に言いたい気持ちになってこれを書いている。

大抵の人は当たり前にやっていることだろうとは思うけど、このブログをわざわざ読んでいる人の中には似たような生活をしている人もいると思うのでさも大発見したくらいのつもりで書いた。ご満悦である。

 

たまに人を驚かせる様な阿保さを発揮してしまうんだけど、最新のやらかしを果たしたので言い訳と共に報告しておきたい。

それは会社の同僚と呑みに行ったバーに片足突っ込んだ居酒屋での出来事であった。

同僚の頼んだフライドポテトを摘んだ際に、どうにも味がしない、塩が足りないのではないかという気がして行ってみたものの同僚たち的には丁度良いとのこと。

ポテトはジャンキーさが命だと思っている僕としては全く味のしない虚無を食べている気がして多少の抵抗を試みたものの「いや素材本来の味で良いじゃん」みたいなことを言われ、えーちょっと待って、原形留めないくらいマッシュされて人工的に整形されて油で揚げ尽くすという素材本来のアイデンティティを徹底的に破壊された上に成り立つ料理に素材本来の味とかある訳 ???とおかしな所で内心腹を立ててしまったんだけど、和気藹々とした飲み会の場でわざわざ言うのも憚られるため、自分だけが塩分の足りないこの世界の片隅に塩を確保する術はないかと考えに考えに考えた結果、俺はもしかしたら神かも知れないというレベルの閃きを得たので、自信満々に店員さんに「ソルティードッグの塩多めでお願いします!」とオーダーした。ソルティードッグの塩でフライドポテトの足りない塩分を補給しようというんである。フライドポテトはソルティードッグに合うし、ソルティードッグはフライドポテトに合うのだから完璧過ぎる計画であると胸を張って皆に教えてやろうくらいの気持ちで意図を発表したら「いや、小皿に塩貰ったらよくね?」と言われて滅茶苦茶恥ずかしかったと同時に周りを愕然とさせた。まさか同じ席で呑んでいた同僚がここまで阿保だと思っていなかったのだろう。そして誰より僕自身がそう思った。

突然発揮されるこの間抜けさをどうにかせねばならないとは思うものの、そんなもの上手く出来れば人生は楽勝である。

何とかネタとして昇華しながらさっさと忘れたいと共に同僚の記憶から綺麗に消えてくれることを切に願う今日この頃である。

 

またー。

9分丈の炭火焼き

徐々に肌寒くなってきて遂に半袖で過ごせなくなり、11月の実感が怒涛の如く湧いて来ているんだけれど、この徐々に肌寒くなるという健康への季節感からの配慮を無下にしてその上に胡座をかいていたせいで今、私服において長袖のシャツの中で身体にあっているものが1着しかないという窮地に陥っている。

筋トレの成果で胸の部分と首回りがキツくなり、袖が9分丈くらいになってしまっている。3人兄弟の末っ子だった黒田くんがお兄ちゃんのお下がりのシャツを着て丈が足りてなかった小学生の頃の記憶が蘇る。黒田くんもこんな落ち着かない気持ちでいたんだろうか。

毎週の様に「買いに行かないと不恰好だよなー」と思っていたしなんか日記にもそんなことを書いていた気がするんだけれど、腕まくりでその丈の足りなさを誤魔化せる季節をそのままやり過ごし切ってしまってこの様な事態となった。

そして、そんな状態にも関わらず「休みなんか週に2日しかないし何とかなるのでは」とか「もう少し寒くなればシャツの上にニットを着る季節になるからまた誤魔化せる様になる、ニットは伸びるから大丈夫だろう」などと既に考えてしまっているので本当にいけない。

1つ無頓着になってしまうと色んなことがどんどん無頓着になっていきそうで、衣食住の一角にその傾向が出ているという事実に危機感を抱かねばならない、と思っている。

思っているんだけど、思うこと自体は夏から思っているのでやはり人間はやらねばならないと思っていてもそれが生命を脅かさないものが多すぎて中々行動に移せないのだろうなーなどと自分を通り越して勝手に人類のことを考え、うんうんと頷いているのでもう暫くは引き続きダメなままだと思う。

 

人に「このお店、美味しいんですよ」と連れていって貰ったお店が予想していた予算の1.3倍くらいだったんだけど本当に美味しくて、0.3上乗せするだけでこんな美味しいものが食べられるなんてスゲーなと感心しきりであった。

その中でも生の穴子を自分の手で炭火焼きにするメニューがあってインパクト及び穴子の弾力の凄まじさに滅茶苦茶驚いてしまった。はーっ!みたいな声が出てた。

「あれ?もしかして穴子を自分で焼かせてあげたらお客さん喜んでくれるんじゃね?」と考えついた人がまず凄いなと思ってしまった。(普通にそういう店が多いんだとしたらただの世間知らずだと笑ってください)

こちらとて日常的に肉は焼く。まあ浜焼きのお店もあるから魚介も焼くっちゃ焼くんだけど、匂いや煙が面倒でまず家では全く焼かなくなってしまっていて、肉よりも距離感がある人も多い。そこから穴子にバーンとスポットを当てる発想。

穴子もまさか自分がピンでデビューするとは予想してなかったと思う。いや、やれるって自信は勿論この世界にいるんだからあったと思うんですけど、とりあえず複数でデビューして、そこからキャラを立てて注目されるようになって、そこで遂にソロデビューみたいな堅実な計画だったと思う。やっぱり穴子は真面目で、自分のことを凄く客観視出来る分、自分がパーッとした華みたいな感じじゃなくて、あまり目立たないけれど確かに素晴らしい、通好みの奥ゆかしさが魅力であるが故にこのタイミングでピンで抜かれてハネないんじゃないかって悩んだと思うんですよ。眠れない夜も一度や二度じゃなかったんじゃないかな。

でも不安はあるにしろ、言った様にこの世界に飛び込んだ者、やれるって自信だってある。このチャンスをモノにしてやろう、という強い想いを感じる弾力と旨味で大変美味しゅうございました。薫り高けー。薫とか書くのウインナーの香薫あらびきポーク以来だな。そういう生活してるんでね、語彙とか足らんので上手く言い表わせられないんだけど自分の中にある言葉で伝えないとちゃんと伝わらないとも思うんでね、すいませんね。

そんな感じで楽しかったので「自分で穴子を焼ける店があるんすよ!」という誘い文句を投げかけてみたら「そんな誘い文句ある?」と普通に断られてしまった。大アリにあると思ったんだけどな。

 

もう更新されることのない「戦場のガールズ・ライフ」をたまに読み返すといつも氷山のことを考えてしまう。海上に出ている部分と、海の中に潜んでいる部分のこと。

氷山の一角を褒めて貰える様に飾ることで暗い海の中に沈む塊を隠して上手くやってかなきゃいけないんだよな。映え文化は元からあった。

 

またー。

ハーフマラソンしながらすれ違い通信。

ストレスが溜まると身体に悪いことをしたいという破滅願望が現れるタイプの人間を長らくやっている。夜にマクドナルドで暴食したりと中々に悪いことを繰り返している。

先日、いつもの調子で身体に悪いことやりてぇな…と思った結果、1月に地元で開催されるシティハーフマラソンに出走のエントリーを果たしたことをここに報告したい。

走ること=運動と捉えれば実に健康的だと思うのだけれど、ハーフマラソンと言うことは21kmである。21kmも走るのって健康の前を完全に素通りして圧倒的消耗の世界、つまりは身体に悪い行いであると認識している僕からすると過去最高に身体に悪い取り組みとなるハズである。レースが日曜に開催されるので恐らく月曜は有給を取得し、昼からマックデリバリーに頼り家で寝ながらポテトとコーラのLなどを食すのだと思う。レースで身体を痛め、リカバリーのつもりが食でも胃を痛めるという身体に悪い方向でのアフターケアも万全という流れになる気が今からしている。

とは言え、21kmを制限時間内に走り切れる体力と能力をこれから鍛える訳で、その過程自体は非常に健康的な気がすることを考えればプラスマイナスで言えばゼロ、そう、私は無となろう、そして世界を飲み込む無となるのだ、私の後に歴史はいらぬ…と何かのラスボスみたいなことまでは言わないけれども、身体に良いのか悪いのか長い目で見るとわからないなぁと思っている。

飲み会の会費1回分のお金を走る為に支払ってしまい、欠場するのは勿体無いのでこのまま故障もなく無事に調整が終わり、出走出来たらと願っている。

 

寝ても覚めても、と言うよりは「寝ればプロメア」というくらい頻繁に映画「プロメア」の夢をみる。

頻繁にこの文字数ばかりが多く共感も情報も得ることが出来ないブログを読んでいる心優しい読者の方からしても「またプロメアの話か」となりそうであるが、放映中の劇場が最早4DXくらいとなり、劇場にも足を運んでいない為に映画本編そのものの感想の上積みが成されていないせいか、ストーリーから大きく逸脱し、プロメアという作品と夢の関わり方が大雑把な方向へ一人歩きし始めており、自分でもちょっと怖いのでその内容をここに記しておきたい。

先日、受注生産のプロメアのTシャツをネットで予約したのだけれど、それが届く夢をみた。

「そういえばそろそろ届く予定だったなぁ」と嬉々として宅配業者から受け取ったものの、それがA4が入る程度の封筒でペラペラであり、「Tシャツ入ってなくね?」と慌てて封筒を開けてみると、中から「生産数が足りず、お客様の在庫を確保することが出来ませんでした。大変申し訳ございません。 堺雅人」という毛筆直筆の手紙が出て来て「堺雅人に直筆で手紙書いて貰う予算と時間があるならTシャツくらい生産出来るだろ」と困惑するという夢だった。

プロメアという作品をハブにして完全にネタに走った夢をみている。堺雅人さんの手書きの謝罪文の方がTシャツより欲しい気もするが、果たして本当に堺雅人さんが書いたものなのかという懸念もあり、そういった客への対応についての評価は実に難しいのだけれど、そもそも夢なのでそこを懸念しようが評価しようが何の意味もないんである。

これがある種の予知夢だとすると、夢にみるまで楽しみにしているらしい(楽しみではあるけど我ながらそこまで首を長くして待ちわびてる感覚も無かった。無意識では物凄いテンションで待っているのかも知れない)Tシャツが無事に届くのだろうか、という不安が過ぎる。

何かが欲しくて夢にまでみる、というのは小学生の頃にポケモン緑を欲して以来である。

初代ポケモンが発売された頃、所属していた野球チームのメンバーが続々とポケモンを手に入れており、ポケモンがやりたいというよりは皆がやっているなら一緒にやりたいなぁと願い過ぎて夢でポケモンゲームボーイを貰ってプレイしようとするという夢を度々みていた。

一緒にやりたいなぁと思っていたのにポケモンに興味が無かったので知識が一切無かった為、夢の中でプレイしようとするとそこで目が覚めた。見たことがないゲーム画面は夢にみられない、夢だというのにシビアな価値観をもった子供である。

結局、何度か手に入れる夢をみたのに、一度もプレイすることは出来なかったし、割と早い段階でたまたま親戚の叔父さんに買って貰えたけれどそんなにハマることもなく、カメックスに覚えさせたメガトンパンチで相手をノックアウトしまくって呆気なくクリアしてしまった。

皆と同じものが欲しかっただけだったのだな、と感じると共に、ゲームとしてはハマらなかったものの、どのポケモン可愛くてビジュアルファンとしては割と熱心に追いかけた様に思う。

夢に繰り返しみたポケモンが手に入ったことを考えるとプロメアのTシャツも手に入るハズ(ていうかお金もう払ってるから届かなかったらそれはそれで凄い)であるとポジティブに捉えて首を長くして待ちたい。

 

またー。

世界の大温泉というより世界観の大銭湯。

大阪に生まれ育って30年以上。

アラサーの周回軌道、重力から解き放たれアラフォーのそれに引き寄せられていく己の運命が目と鼻の先に迫っている様。orbital period(全然違う)。ハンマーソングと痛みの塔。かさぶたぶたぶかさぶた(かさぶた)。片想いのように、年金のことが過ぎる。

大阪において、そんな感じで長いこと生きながらえてきた僕ではあるけれど、新世界に確かに存在し続けるスーパーを超越するモンスター銭湯ことスパワールドには一度も行ったことがなかった。

この度、東京から泊まりに来た無計画な友人と、宿として迎え入れた無計画なこちらとでマジでやる事も行く先も予定しておらず、アニメ「キルラキル」を見たりマクドナルドのデリバリーをモソモソ食べるなどしながら無理矢理予定を捏造、行き先を捻出した結果、スパワールドに行って来た。対抗馬としてUSJが候補にあったものの満喫出来る気がしなかったので「もう風呂入ろうや」という感じでスパワールドに決まった。無気力が有利、怠惰の勝利。

2種類あるコンセプトは月替わりで男女入れ替え制とのことで、10月度は男湯がヨーロッパゾーン、女湯がアジアゾーンであった。

だだっ広いフロアにだだっ広い風呂がボンボンっと配置され、漫画でもそろそろ採用しなさそうなくらいにコテコテのヨーロッパ要素が若干チープな装飾にて再現されていて絶妙な気怠さ、最適であり適当な安心感が得られる空間となっていた。

ローマをモチーフにした風呂では湯質の説明も一切なく、まさかのローマの歴史のみが看板に記載され、アニマルセラピーの説明の最後には「だから水槽の魚で癒されてくれ」と力技で無理矢理繋がれ、スペインの広場をモチーフにされたという謎の露天風呂と滝湯などガバガバっぷりは困惑を呆気なく通り過ぎて好感だけを僕らの中に植え付けた。

一番良かったのは全裸で足湯につかりながらテレビをぼんやり眺めてビールが飲めるスポットであった。足湯やビール、テレビなど庶民の贅沢要素を思いつきでぶちこんで生成された贅沢のキメラはこんなに気怠くも微かな背徳感があり最高であった。普通に生活していて足湯につかりながら全裸でビール飲みたいなぁ、なんて願望は抱き様もないことを考えると、想像の外側からの新提案に違いなく、そのプレゼンに陥落してしまった我々は、決して閉じることのない新たな欲望の扉を開いてしまった敗者であると痛感すると共に先に述べた通り背徳感もまた欲においては旨味である為、大変満足するに至った。知らずにおけばそれはそれで幸せだったことがまた1つ増えてしまった。業が深い。

その売店で「世界の水」という名のついたペットボトルのミネラルウォーターが販売されており、国内の水とペリエコントレックスが選択可能という名前に負けないガバガバな選択肢で笑ってしまった。女湯ならまだしも男湯でペリエだのコントレックスだのが売れるのだろうか。完全な偏見で申し訳ないが、世の男性が知っているミネラルウォーターはクリスタルガイザーいろはすと六甲の天然水だけなんじゃないか。エビアンすら知らないのではないだろうか。売れ筋が気になった。

ビールを飲み始めた頃、ちょうど放送されていたサッカーのルヴァン杯の決勝戦が物凄く盛り上がっていて目が釘付けになり応援に力が入った。凄く良い試合なのに全裸で応援してごめんな。

その後、タイ式マッサージを受けるなど、贅沢を更に拍車を掛けてリラクゼーションのラストスパートを掛け、最終的に何故だかプリクラを撮り、よく行くお店で美味しいものをたらふく飲み食いした。

そんな感じで珍しく心身共にご機嫌を取ってやったので、コロッと騙されてまた一週間せいぜい俺の為に働いてくれやと己にほくそ笑んだ。

 

またー。

ナナイロエレクロリックソカワパーティー

以下、ライブレポとして中身に触れて無さ過ぎて全く機能してない個人の感情語り倒してるだけなので期待しないで欲しいし、了承頂けなくてもどうでもいいです。

 

2019/10/05

大森靖子さんのライブを観に梅田クラブクアトロへ行く。

クアトロの足元に埋まる泉の広場が完全に閉鎖された姿を初めて観た。交差点の地下に噴水の広場を作ってしまうという何をどうしたらそういう発想になるんだろうという広場だった。

駅から伸びる地下道の果て、水の匂いが充満し、明るさが妙に足りず何とも気怠い、通る人から何かを吸い取って永らえている様なRPG感のある空間で、心底ゾッとした都市伝説「赤い女」の舞台でもある。あれ考えた人、どこの誰なんだろう。怖過ぎて一時期マジで通れなかったから一発殴らせて欲しい。

工事看板に印字された通り、予告された終わりがその通り迎えられただけ。それに対して感傷に浸る程の思い出もないのだけれど、何度も通った道が塞がれてしまう事に時間の流れを見て、もうそんなに生きてきたのだなぁという感想を抱いた。

結局、何を通しても欲しがってしまうのはそういう生を実感出来る何かなのかも知れない。些細なことでも、大層なことでも、自分の手でそういうのを用意することを放棄した人たちはそれを実感出来る何かを外から得ようとする。そういうもので世の中は成り立っているという考え方は年々強くなる。

人という字が支え合っているなんてのは弱い者の都合の良い解釈だと思う。もたれ掛かって、縋って、自分より強い者に頼って生きている。じゃあ強いとされた方はどうしたらいいんだろう。大差ないのにそういう役割を果たせと言われる側は、足踏ん張って胸を張って背伸びしてまで騙し騙しやってかなきゃいけないのかよ、などと言う様に、たった二画の漢字のことを時々凄く考える。芸術も、宗教もそうやって考えた末の拠り所として生まれてきたんだと思う。より大きなものに肯定されたい、救われたいという気持ち、あとは自分だけじゃないと思いたいその気持ちを随分とまあ美しく、まるで正しいものであるかの様に導いてくれるもの。生きてると思いたい。生きてていいと思いたい。

自分のそんな感情について考えると、心底苛立つ。口の中が苦々しく、言葉は刺々しくなる。自分で自分をうるさいと思う。ガッカリだ。

大森靖子さんのライブは、それをいちいち全部並べて1個ずつ光を当てて、こうすると綺麗に見えるんだよと教えてくれるライブだといつも思う。

光を当てて白飛びさせてしまえば大体のものは綺麗に見える。カメラアプリと同じ様に。

ただ大きく違うのはカメラアプリで補正を掛けるのは自分自身だけれど、こちらは大森さんが大森さんの言葉で補正を掛けてくれることだと思う。人にその人の言葉で自分の気持ちを間違いでないと言って貰えると心底安心する。感情のキュレーター大森靖子

ただ頷くだけでなく、自分の言葉で返してくれる、果てしなく手間が掛かって回りくどい方法をずっと続けてくれる人だな、と大森さんのライブを観ているといつも思う。

長いツアーで喉を酷使して、それでも全身を大きく使いながらそういう事を届け続けてくれる姿を観て本当に励まされる。お陰で自分に対して頷いてあげられるエネルギーを引っ張り出せる気がする。面倒ばっかだけど、もうちょっと頑張っていくしかないよなぁ、みたいな。

そんな気持ちになった。

あと、単純に曲が格好良いから凄い。

クソカワpartyの収録曲やでBPMがガツガツしたものを音源で聴くと30代特有の邦ロックのダサさで溢れかえっていて世代的に「2019年にまさかこの純度でかまされるとは思ってなかった」と何とも言えない気持ちになることもある(大抵その時は自分の気が滅入っているのでバロメーターとしても非常に優れている。そういう時は何故か浜崎あゆみTOKIOの長瀬のことを思い出す)んだけど、ライブで音としてもプレイスタイルとしても躍動している様を見せ付けられると鈍器で殴られる類の凄みがあって痺れる。family nameも冗談じゃない執念を見せ付けられた気がしてハッとする。チムドンドンの漫画を思い出す。俺もチムドンドンしたい。最高にチムドンドンしたから。ギャグにしたい訳ではなく、それくらい執念というものは周りから見るとウケてしまうのかも知れないと思っていて、例えばバッティングセンターでホームランを打ちたくて球数を打てる様になりたい一心で手首の強化に努めた話をすると割と笑われるんだけど僕はクソ真面目に言っている訳で、そういうものなんだなと思って、それを思い出してハッとした。悪い傾向じゃないんだよな、そういうの、みたいな。

最近はピエール中野さんのドラムがバチクソに活きるタイプの曲が多いのもあって、どの曲でもドラムが格好良い。それでいて目立たない叩き方をするのがえげつない。

ギターの畠山さんもバンマスとして引っ張るし器用に表情を変える演奏だけれど畠山さん!!!って感じにならないのが凄い。戦隊ロボみたいな感じで、メインはレッドが操作してるけど他の隊員もエネルギーを確かに送り続けいて、大きな大きな大森靖子を動かしている様な印象を受ける。夜のスーパーヒーロータイムだと思った。

曲単位でどう、みたいなの時間が経ち過ぎてて薄れているんだけど、歌詞飛びまくってても、伝えたい言葉が溢れかえってる大森さんの姿を見せられると、ここまでしてくれる人がいるんだからもうちょっと頑張って暮らしていかなきゃいけないよな、みたいなことを思ったことは鮮明に覚えているのでそんな感じでした、という終わり。

ライブの後、餃子を食べ、友人の営業ネタに覚えたというELLEGARDENのジターバグを聴いた。そういう風にしかやっていけないんならそういう風にやってくしかない。新鮮で面白かった。

 

2019/10/18

相変わらず映画「プロメア」の夢をみる。

自分がどこに感情移入しているのかいまいち判然としない。ただ、スポーツの試合を観ている様な気持ちになるのは確かで、リオとガロにそれぞれ別々に想いを託している気はしている。

プリキュアがんばれ現象とはこういうものなんだろうか。知らんけど。

そんな夢をみたあとはあまり疲れが抜けておらず、大事なライブがあるのにな、という気持ちになるものの感覚としては部活で夏の大会初日の2試合を勝ち抜いた2日目の朝というニュアンスで案外悪くない。疲れはあるけど今日も試合が出来る的な。

午前中はバリバリ仕事を片して午後から半休。

インテックス大阪へ、ナナイロエレクロリックツアーを観に行く。

ナナイロエレクロリックツアーというクソダサい名前のイベントはASIAN KUNG-FU GENERATIONストレイテナーがやってた企画にELLEGARDENが加わってえらいことになっていたもので、15年ぶりにそれが開催されるという事でチケットを手に入れられたので行ってきた。

自分の中では高1でストレイテナー、高1の終わりにエルレ、そして大学1年にアジカンという順番で当時のナナイロを知る身でもあり、年季が入っていて眩暈がする。歳を取ったという実感に涙が出て死にたい気持ちで一杯になると同時に、まあ上手い事ここまで勝ち抜いてきたよなーという変な達成感を抱いた。

まだ名古屋と東京が残っているのであまり内容に触れない様にしたいけれど、どうしても曲名を書きたい部分もあるので嫌な人は読まないでいて欲しい。そもそもここまで2900字くらい書いているので9割以上が立ち去っている気もする。最初の30秒で掴めないとリスナーは去る的な。

ストレイテナーは2019年のストレイテナーを見せ付けつつ、時折過去のハイライトたる曲を織り込んでくるセットリストだったと思う。

ストレイテナーは一番長く観てきおり、メンバーも2→3→4人と増え、ボーカルの技量も一番伸びたなぁと都度感じさせられるバンドで、二組に比べれば派手さはないけれど確実に表現が多彩になり続けた成長する末っ子という感じで本当に頼もしかった。こんなにメンバーが増えて嬉しい気持ちになるバンドもいない。

「幸せになろう」みたいな年相応なメッセージを送りまくっていたのには笑ってしまったけど、その言葉に説得力を持たせるだけの曲をストレイテナーは生み出せる様になっているんだなと思い知らされた。良い意味でファンタジー一辺倒だった時代から、今、日々の暮らしを彩る地に足つけた歌が歌えるまでになったのかと思うと凄く励まされた。

高校生が時を経てサラリーマンになる様な。その中で演奏された「REMINDER」に変わらない根っこを垣間見て少し泣けた。

 

ASIAN KUNG-FU GENERATIONは、好きになったり嫌い(というよりは苦手)になったりと思い出の多いバンドである。君という花咲かなくて良くね?な時期もあったり、いや別にリライトせんで良くね?という時期もあったりした癖に常に好きという起伏が多くて忙しない思入れがある。

同じく来ていた大学時代の友人と会場の外でビールを飲みながらリライトを聴き、ゲラゲラ笑ってしまった。リセットとリライトの違いを何故か東京03に引っ掛けて考えていたけどビールでサッパリ洗い流されてしまっていて言語化出来ない。その程度の話なんだと思う。

アジカンアジカンの表現で「ありがとう」を伝えまくっていてイベントのアニバーサリー感がエグい。同窓会を通り越してシルバーホームみが出てきている。ありがとうの言い方及びゴッチの顔が友達に凄く似ていて友達に対して腹が立った。俺のゴッチの威厳を返せ。

これ以上の名曲はあるのかと思ってしまう広がり続けるギターの「サイレン」、フラッシュバックや振動覚にない圧倒的な重みと打力を両立した「Easter」など、リアルタイムで聴いていて完成されたバンドだと思っていた彼らの表現力にまだ先があったのだと感動するステージだった。サイレンは本当に今のアジカンが一番映える曲なのではと改めて驚愕した。リアルタイムでシングルを買った時の衝撃を僕の中では超えた。初聴を超えてくるというのは尋常でないと思う。

 

ELLEGARDENを観たら死んでしまうと思っていた。

好き過ぎて、聴き過ぎて、待ち過ぎた。

絶対にまた観れると信じていた一方で、次に観たらもう全部どうでも良くなってしまうんじゃないかという怖さがあった。

大森靖子さんが全てを言語化して救ってくれる存在なのだとしたら、細美武士は腐った所を全部並べてうるせえ生きるぞと発破をかける存在だと思う。大森さんが天使なのだとしたら、細美さんの視点は肯定というより事実認定に近く、翻って残酷さとも取れるソレは超然的なので神なのかも知れない。

結論として、ELLEGARDENは相変わらずELLEGARDENであったけれど、ナナイロエレクロリックツアー仕様というか、カムバック仕様の祝賀会編成のセットリストだったことが功を奏してメンタル的に持っていかれることも少なく、リハビリとして本当に良いライブだったと思う。各々の中にある「あの日」のツアーTシャツを引っ張り出して会場に駆け付けた人たちにはきっとこの感覚が伝わるんじゃないかと思う。

当たり障りのないセットリストで、大声で歌う感覚、飛び跳ねる感覚、拳を突き上げる感覚を1つ1つ思い出させてくれる愛おしい時間だった。

唯一、この尺で演奏されると思っていなかった「金星」でボロボロに泣かされてしまったけれど、まあこれも演出的にはナナイロエレクロリックツアー仕様だったので振り切れて戻って来れないなんてことも無く、「無事に帰して貰えた」という言葉がしっくりきた。

「今度はもっと小さいハコで会おう」という趣旨の細美さんのMCを「次は容赦しないぞ」と勝手に読み替えて(完全に誤認である)、観たかったELLEGARDENではあったけれど会いたかったELLEGARDENかと思うと少し違った違和感が腑に落ち、単純に楽しみに待とうと思った。

少しずつ、自分を犠牲にすることで何となく上手くいくことを覚えて、それが自然になって、どんどん過剰になってもう麻痺してしまった毎日の中で、何を犠牲にしても自分を守ってやんなきゃいけない、という気持ちを少し思い出さされるライブだった。

 

ここまで自分の話ばっか書いてるの凄いな。思想及び死相でも出てんのか。

 

またー。

荒れ狂う猫ちゃん部族のゾンビ

公園を歩いたり走っている際、トコトコ歩いている鳩を警戒から飛ばしてしまうと申し訳ないので距離を取るルートを採用しがちであることを同僚に指摘され、動物愛護的な所があるという評価を受けた。

そもそもの取っ掛かりとして愛護とは違うものではないかと思うのだけれど、それを言うとここで終わってしまうのでそこは本作の設定、世界観として処理したい。

その中で、人間としての価値観において、「自分だったら警戒から無駄な運動をさせられたら嫌だな」と愛護よりも怠惰と小心に基づく結論であるのでそんな大層なものでも無いのだけれど、そもそもその視点で鳩について考えない層も普通にいるとは思うので、そこと比べるとまあ愛護とまでは行かずとも動物贔屓な方なのかも知れないと思った。動物贔屓。大人になってからは猫ちゃんに対する贔屓が一番酷いかも知れない。んー猫チャン!申し訳ない、忘れて欲しい。

いつか猫を飼う日が来るのかは解らないけれど、可愛がり過ぎてノイローゼにしてしまわないか一抹の不安がある。結果、嫌われ過ぎて僕もノイローゼになるだろう。共倒れという暗い未来しか想像出来ないネガティヴな僕は贔屓を通り越して畏敬の念を動物に抱いているのかも知れない。そんなことを考えた。畏敬の念という言葉を俺に教えた作品、ぬらりひょんの孫

 

暫し日記を書いていない間に色々あったのでどんどん思い出してサクサク書き留めていく。

 

USJのハロウィンイベントに「荒れ狂う部族のゾンビ」が登場すると人から聞いてその情報量の多さに妄想が止まらなくなってしまった。

人から聞いた存在である為、真偽の程は定かではないのだけれど、少なくとも僕にとって大切なのはそこでは無くなってしまっている。

ゾンビになった部族が荒れ狂う様になった訳ではなく、恐らく元々荒れ狂っている部族がゾンビになったからこそ「荒れ狂う部族のゾンビ」であると思う訳で、ではその荒れ狂うという部族の様式に到達した由来は何だったのだろう。資源に乏しく周りから略奪する生活がそうさせたのだろうか、それとも厳しい自然の神を自分たちも荒れ狂う事により同調を示すことで治めようとしたのか、そんなことを考えていた。

普段は我々と変わらぬ気質でありながら催事の際には荒れ狂う風習としての荒れ狂いなのだとしたら大阪の岸和田と岸和田祭りに近いものなのだろうか、だとして荒れ狂う部族の村の特産品は何なんだろうか、荒れ狂う部族が手塩にかけて農作物を育てているという考えれば普通なのに言葉の流れとして何となく面白い現象を当人たちや周りに暮らす他の部族はどう受け止めていたのだろうか。

実に興味深いので荒れ狂う部族に詳しい方がおられましたら教えて頂ければと思う。(USJだから何かの映画に出て来てたのかな、くらいの素の推理はしている)

 

ナンバーガールの活動が活発になるにつれ、逆に周りの渇望がさらなる境地に達しているのを感じる。存在しないと思っていた憧れが存在している現状なのだから、欲しいと願うのは当たり前であるが、案外自分がそこに全く何も感じないのだなと思って大変に意外で驚いた。

とても好きで聴いていたつもりだったし、実際好きだったと思うんだけど、各々の活動でバッチリ格好良い姿を「続き」として観てしまったので僕の中でナンバガは始発点ではあるけれど最高到達点ではなくなってしまったのかも知れない。だから何だという話だけれども。

あとは割と歌詞に対しての思い入れの無さが楽曲に対しての思い入れの高さについていけていないのも大きいと思っている。自分も歌詞から多くの情報を得るとされる邦楽リスナーなのだな、と今回のことで実感している。

 

宝塚へ宝塚歌劇を観賞へ行った。

煌びやかで美しく、皆が凛としており眩しかった。そして予想の10倍くらいギャグパートが盛り込まれており、滅茶苦茶笑った。

美しい作品に触れに行くぞ!というモチベーションで行ったのでまさか美しい上にこんなに笑わされると思っておらず度肝を抜かれた。

阪急電車などでよく演目のポスターを見かけており、素人的にベルサイユの薔薇みたいな「宝塚でやりそうな世界」だけでなくかなり多彩な演目を上演されているのは何となく知っていたけれど、ここまで1つの演目の中でコロコロと表情を変える演出がなされているというのは大変に衝撃で面白かった。

若干の当日券、そして立ち見券が出るというのも知れたので今後は興味が湧いた演目には積極的に飛び込んでいこうと思うものの、日本でも有数の老舗の沼である為、オタク気質な自身が深みに嵌ると人生が変わってしまいそうで腰が引けている部分もある。

それでもまた足を運んで観劇しようと思う。

 

怖い話が苦手なのに怖いもの見たさで覗いてしまう習性があるので「ほんとうにあった怖い話」の特番を録画してしまった。

そんなものがいつまでもレコーダーに残っているのも呪われそうで怖いので、怖くなったら止めてラグビーかバレーのW杯を観て溌剌とプレーする彼らに幽霊の類を蹴散らして貰い、挙句勇気を貰って再び「ほん怖」へ向き直るというチキン極まりないスタイルを採用した。

日本代表のスポーツ選手もこんな国民へこういうジャンルの勇気を与えているとは思わないだろう。申し訳ない。

幽霊も幽霊でスポーツ選手に蹴散らされて戸惑っていると思う。頼むから成仏してくれ。

今回の「ほん怖」はそのお陰か寝られない程怖いという感じもなく(ホラーの情緒を根刮ぎ断っているのだからそれはそうだろう)観終わる事が出来た。

ラグビーもバレーも日本代表は試合に勝利し、ホラーの流儀において僕だけが負けたという構図に気が付いて多少落ち込んだけれど、これくらいじゃないとホラーを受け止めきれないので仕方がない。精進せねば。

 

森見登美彦先生のトークセッションが武庫川女子大であるとの事で、そのついでに甲子園球場のスタジアムツアーを予約して行って来た。

阪神タイガース高校野球の試合で沢山通った甲子園球場ではあるものの、普段は入れないブルペンやロッカールーム、グラウンドやベンチに入れるツアーは物凄く新鮮で楽しかった。

全員赤の他人なのに一同、どこを見せて貰っても手を叩いて喜ぶ赤子の様なテンションで妙なグルーヴが生じ、最終的にはその後訪れた甲子園球歴史館ですれ違う度に会釈をする様な関係性に到達していた。一緒に高揚する体験をすると性別や年齢に関わらず親近感が湧くんだろうか。

色々コースに種類がある様なのでまた別のコースにも参加したい。

野球帰りにたまにご飯を食べに行くお店でハンバーグを食べてから森見登美彦先生のトークセッションへ。

在校生と卒業生から選ばれたパネラーと司会進行の方と森見先生のトークで、基本的にパネラーが一番好きな作品における質問をして、それに森見先生が答えてくれるという流れで面白かった。

トークセッションでガチガチに文学的な解釈の話をされたら置いていかれてしまうという緊張感を持って挑んでいたので、ライトな、一読者からの素朴な質問に終始してくれてホッとした。

好きな作品は沢山あれど、セッションの中で森見先生が仰っていた「現実社会で言うと引っ掛かってしまう様な言葉を言える様な世界を描いている」という内容の話がとても印象的で、どうしても作品と著者を結びつけてしまう結び目を優しく解いて貰った様な気がした。

考えずとも当たり前のことではあるんだけれど、例えば村上春樹先生なんかに対して、個人的に無意識にそういう見方が働いている様な気がしていたので納得がいった。

後は語彙責めとなりそうな所を軽やかに和らげてしまう森見作品の魔法の仕組みやら、その語彙自体に対する自然な付き合い方(向き合い方というよりは付き合うという表現が似合う)、自分が自然と必要とする語彙があれば良いのではという考え方は作品と同じ様にホッコリさせて貰った。

合わないものを無理に振るうと思った様な伝わり方にならない。大事な視点だなと感じた。

 

色んなものに触れているのだなと我ながら驚く。

少しでも血肉となっていれば良いのだけれど。

 

またー。