性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

オリオン座(前前前夜)

まとまらない文字を、いっそ、そのまま。

 

運動不足解消の為、三時のおやつを買いにコンビニに行った帰り道は職場のあるフロアまで階段で登る。

4分程度、のんびりと窓のない非常階段を登る。

コンクリートで囲まれた竪穴区画に足音がよく響くので「そこまで響く必要ある?」と大袈裟なボリュームにゲンナリしながら登る毎日だった。だけど、毎日の様にある階の踊り場でサラリーマンが休憩していて、その人のリアクションを見るにつれてこの足音には意味があるのだと思った。

初めは、足音の主に警戒しているのかこちらの姿が見えるまで視線を向けていた。だけど今では足音で僕だと判別がつくのか全く気にされなくなった。彼に取っては非常階段が一息つけるシェルターの様な場所なのかも知れない。

そこに立ち入る人間が同僚だった場合、やり過ごす事で消耗してしまうのかも知れないし、居場所が知れたらまた違う隠れ場所を探さなければいけないかも知れない。彼がいるのもそこそこ中層階なので、わざわざ階段を使う同僚がいるとは思わないが、それでも万が一を想定しているのか警戒している様子だった。

僕の足音に関心を示さなくなったという事は、無害な通行人と認められたからであり、何となくそれが誇らしかった。

 

彼を見かける様になって数年は、自分にとっての職場におけるシェルターは幸いにも必要無く過ごせた。

中間管理職に就いてから、急に誰とも接しない時間が欲しくなった。少し遠くのコンビニまで出掛ける様になり、帰り道も少し遠回りして帰る事が増えた。

社内に嫌な人間なんていないのに兎に角毎日ヘトヘトになって、そうなってしまう自分が嫌で嫌で苦しかった。

泣きたいとは思わないけれど、どうにもギリギリ表面張力で保ったコップを持たされてフラフラしてしまう様な状況が続いた。

限界かも知れない、と思って「マジ限界集落」という口癖を生み出したら「気が滅入る」「世知辛い」「オヤジ臭い」と好評を博し、こんなに社会人するの下手くそだったっけと地味に打ちのめされた。

 

そんな中で手に入れたのが、大森靖子さんのライブで配られた「オリオン座」の歌詞が印刷された紙だった。

何となくそれをiPhoneケースの蓋についたポケットに折り畳んで入れた。ライブが終わってカバンの中でクシャクシャになるくらいなら折り目の方がマシだと思ったんだと思う。

ある日、あまりに疲れ果てて、思わずトイレの個室に篭ってボンヤリしている時に(松本大洋『ピンポン』のドラゴン的に)ふとその存在を思い出して広げて小声で読んでみたら、究極的に自分が肯定された気がして心の平穏を取り戻し、無事に業務を乗り切れた。

ここで胡散臭いと感じた人はきっとまだまだ余裕のある人なんだと思うし、願わくば一生余裕があるままで生きてって欲しいと思う。

良い歳したおっさんが、と思った人は同じ様に下の世代から思われている事から一生逃げ通せ。どうせなら捕まるなよ。

おっさんは加齢であるので個性として頼る事は本当に本当にダサい。でも良い歳したおっさんに逃げてしまうくらいに疲れ果てている。そんな自分が哀れで虚しくて悔しい。

兎も角、この通信販売や新興宗教勧誘的に見えてしまう精神衛生上のどんでん返しは、きっと当人にしか解らない。

声に出して読むという行為は特にその側面を色濃くさせる気がするけれど、無意識に声に出して読んでいたというのはそれだけメンタル的にかつてないレベルで追い詰められていたのかも知れないと分析する。

その非現実味を解っていながらも書きたいと思ったのは、先の非常階段の彼に警戒されなくなった時に感じた「彼にとってのシェルター」が自分にとってこれではないかと感じたからだ。

それからと言うもの、あまりに辛かったり疲れた時はスマホケースから歌詞を取り出し、小さな声で読んでいる。(まあ別に辛い事は多くないので正直そこまでの頻度ではないけど)

お守りの様に持っているだけで、何か1つ武器が増えた気がして心強い。

小さく声に出す時、いつも非常階段の彼を思い出す。僕は生き残りたいし、彼にも生き残って欲しい。

 

毎日辛いって自分を呪ったり、世の中を呪ったりする事が歳を取れば取るほど億劫になり、控える様になり、それで大人になったと思い込む。

そして、この辛いを「幸せ」に、呪うを「祝う」に置き換えても全く同じことが起こりうる。大抵の事は年々ボンヤリしてくる。

それを内側からダイレクトに正してくれるのは当然ながら奥さんの存在なのだけど、外から正してくれる存在がここ数年は大森靖子さんだったし、大森さんの旦那さんだった。(理想の大人像、旦那像を諦めないキッカケになった)

幸せも不幸も嬉しいも悲しいも、自分がそう思ったならわざわざ鈍化させなくても良いと教えてくれた。

これまでもそうだったのだけれど、オリオン座の歌詞が僕に気付かせてくれたものは本当に大きく、明確であると自分で思っている。事細かに記すことも出来るけど、書いても何の意味もない。

 

普段、人がどうして自分と同じアーティストが好きなのかというのにはあまり興味が湧かないし、逆に自分がアーティストを好きな理由を同じファンに共感して貰えたり消費して貰えたりする物語性は必要ないと思っている。

なのに、物語があるんじゃないか、いや、あるだろと思わせてくれて、挙句引きずり出してこんなことをダラダラ書かせてくれる。

自分の面倒な部分こそを白昼に突き出してくれるのが、僕が大森さんを好きな理由なのかも知れない。

本当に音楽が魔法であるのかないのかは、結局受け手によるのだろうけれど、出せる手は全部差し出す千手観音状態大森靖子さんは僕にとってちょっとした仏ゾーンだよ。(照れ隠しでも何でもなく仏ゾーンも凄く好きだというアピール)

勝手に救われて勝手に幸せになるんで、大森さんがもっと好きなこと沢山出来ますように。

 

 

またー。