性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

バケットサンドを固いパンと呼んで。

お洒落なパン屋でお洒落なランチプレートを食した。

釘が打てるのではないかという程に固いパンに分厚いチーズがねじ込まれた文字にすると野性味溢れる料理であるが、実物は非常にお洒落なサンドイッチをメインに据えたプレートであった。

その固いが非常に美味しいサンドイッチを必死の形相で噛みちぎりながら、斜め前に同じサンドイッチを涼しい顔して食べるOLを捉えて愕然とした。違い過ぎるんだ、格ってやつがよ…。

何でそんな穏やか通り越して若干気怠さまで纏ってスマホいじりながら食べれるんだよこっちは硬すぎて顎が痛いしヨダレ垂れそうになって大変なのによと思わずにはいられなかった。

ジャングルでこのサンドイッチを涼しい顔して食べる野性のOLに出会ったら勝てる気がしない。このサンドイッチを食べなれているOLがゾンビだったら噛まれて伝染する前に噛みちぎられて死んでしまう。マーベルのヒーローとして君臨出来るレベルで顎が強靭過ぎる。などと賞賛なのか何なのか、畏敬の念を抱くに至る。

固いパンが刺さって皮がめくれた口内に酸味たっぷりの美味しいドレッシングが染みて地獄を味わう。彼女もまたこの地点に立った日があった筈である。ここを通り過ぎれば、彼女の様なお洒落OLになれるのかも知れないと、最終的には修行に取り組む気持ちで完食した。

美味しかった。

俺のお洒落OLへの道ははじまったばかり。

 

映画「君の名前で僕を呼んで」を鑑賞した。

愛おしくて切なくて、良い映画だった。エリオとオリヴァーの全く違うタイプ故のナイーヴさのすれ違いっぷりやあんまりに儚いものに触れて、触れ続けようという事へのエネルギー消費量なんかが半端じゃなくて全部に意味を持たせてしまいたくなったりして穏やかながら脳内が破茶滅茶忙しい作品だった。

切ない恋愛映画を観た!って気もするし、綺麗な写真集を観た!って気もするし、社会的な背景について当時及び現在の両方それぞれに考えさせられるし、でもそれを抜きにしてめっちゃ良い映画だったなぁという所に落ち着く。

終わり方が切なくて、またエンディングの撮り方が良過ぎてたまんなかった。

この映画をBL映画で片付ける人は多様性に対して何の理解も無いんじゃないかと思うし、そんな所で止まってるんだったら感性死んでんじゃね?大丈夫?くらい僕には良い映画だった。

「自然と理解されるべきことなのにそうでないもの」を映画評価を隠れ蓑にし、好みの範疇という言葉に甘えて理解出来ないと断言してまえる人の恐ろしさったら本当にホラーだな、と。

 

同世代の友人とケーキを食べてから飲みに行った。形式としてケーキを食べられれば良い訳でなく、一番食べたいものを確実に食べられるという点に重きを置いた結果、飲みに行く前にケーキを食べるという順序となり、それに付き合って貰った形である。

俺の庭ことキディランドで待ち合わせをしたらこちらの予想通りミッフィーコーナーに相手がいたこと、また相手がこちらを見るなり体格が良くなったと言及するなど遠距離恋愛のカップルさながらで謎の空気感であった。

そんな訳で成人男性2人、特に女性に支持されそうなフルーツの使い方をするお店で美味しく頂いた。

飲み会は通り掛かって良さそうだった肉バルに入ったが、木曜日ということを考慮してもガラガラで、喧嘩の強そうなお兄さんがワンオペで営業しており随分と客単価の高いすき家だなと思った。(※現在のすき家はワンオペ問題にしっかり取り組んで改善を成しているというニュースを見たので表現としては不適切ではある)

ホルモンの串焼きを店頭メニューのハイライトとして掲載しているにも関わらず、木曜日だからかテッチャン以外を仕入れておらず、まさかの串焼き単推しという事態であった。それでも焼いた肉は美味しいので良し。

比較的性格の暗い人間が2人向かい合うと主な話題は「人間は簡単には変わらない。俺たちは暗いけどそれはもう仕方がない事だよな」という確認作業がメインとなる。

とは言え、2人とも主人公体質の人に対してヘイトを溜め込むというよりは「そうはなれないけど面白いしいいなと思う」という良心的なモブキャラ気質を有している為、大変穏やかな会であった。

他には抽象度の高い作品より明確にテーマが指定されている作品の方が売れるのは解りやすさの違いなのか、自身の受け取る力に自信が持てないからなのかという話をした気がする。

あとは何故か「筋肉は鬱を倒す」みたいな風潮に我が身を持ってNOであるという報告を聞いて貰った。僕自身は鬱ではないのだけれど生粋のネガティヴである。筋肉が気落ちを防ぐのではなく、身体を健康に保つことで体調を崩す可能性を目減りさせ、それによるコンディション低下時の気落ちの機会そのものを遠ざけるという効果があるのみである。

個人の性格まで変えるまでの効果は筋トレにはない。筋肉で鬱が治ると言える人はそういう才能があっただけである、と僕は考える。

僕の好きな筋肉に関する思考にドランクドラゴン鈴木氏の「いざとなったらコイツを倒せるという優越感が大切」というのと武井壮氏の「トレーニングはしんどいもの」というものがある。前者は性格が変わらない困難性とそれでも折り合いがつけられる方法があるのだという絶望と希望、後者からはどんな凄い人もしんどいもんはしんどいんだからしんどいのであるという「人は人の子」的な安心感である。こんな凄い人でもしんどいんだから自分がしんどいのも当たり前だしそういう事をしているのだから頑張ろうと励みになる。

何の話だったっけ。

あ、友達と沢山話して楽しかったでーす。

 

またー。