性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

大体毎回いつも同じ光景を思い出させる香り。

パン屋さんのイートインで朝食を摂っていたら、近くの席のご家族のお母さんがサービスの茹で卵を食べて「喫茶店のモーニングの味!」と喜んでおられた。
ただの茹で卵だって、自分が茹でないでも食べられて、しかも喫茶店のモーニングと記憶に紐付けられた味である固茹っぷりとなると、多忙な日々で足が遠のいてらしたのか幸せの声もそりゃ漏れてしまうだろうな、と聞こえてきてホッコリしてしまった。
何それー!と元気よく尋ねる子供に「喫茶店行った事ないもんね、今度行こうね」と答えており、何というかと素敵な会話を盗み聞いてしまった(決して頑張って拾っていた訳ではない。真後ろだったのです)
味や香りが記憶のフックというかスイッチになっている、というのは割と誰でもあると思うんだけど、僕の中で一番強いのがお茶の香りを嗅ぐと保育園生時代の吹田のダイエー(グルメシティーを経て現在はイオンだった気がする)を思い出す。
保育園の頃はダイエーお茶屋さんで売られていたグリーンティーを狂ったようにねだり、浴びる様に飲んでいた(親談)らしいが、確かにお茶の香りを嗅ぐとダイエーの一階をワクワクしながら歩いていた記憶が蘇る。
食料品は地下なので親はあれこれ理由をつけて別の方向から目指そうとするもこちらも理由をつけてお茶屋さんの前を通らんとする熾烈な争いを繰り広げていた思い出がある。
当時のダイエーは壁に巨大なゴリラの人形(建物の2フロア分くらいの背の高さだった気がする)が吊られていて、いつかアレに襲われるんじゃないかとハラハラしていた。襲われずとも、暇が切れて落ちてきて下敷きになるんじゃないかと怯えており、その近くにあったマクドナルドよりも同じ建物の離れた区画で営業していたドムドムをよく選んだものである。率先して危機回避してもハンバーガーとポテトは食べたい食欲の化身である。
そんなものがダイエーの壁に吊られているなんて新宿のトーホーのゴジラみたいな事あるんかと思われるかも知れないが、滅茶苦茶真実なので良かったら「吹田、ダイエー、ゴリラ」で検索して欲しい。きっと実際の写真がヒットすると思われる。
若干話は逸れたけれど、お茶の香りで割と高い確率でその光景を未だに思い出す。
今はどうなっているんだろう。近くに寄ることも無くなってしまったのでいつまでもその印象のままである。


それはそうと、上記のほっこりと同じはずなのに難しいなと思ってしまったのがスープストックの「離乳食無料提供サービスを全店に」というニュースから始まったプチ炎上みたいな騒動だった。
基本的に元々そういう商品をネット販売するなどしている会社だし、試み自体も素敵な事だと思う。
ただ、誰もそうじゃないお客さんとの分断を生もうなんて思ってない筈なのに分断が生じていて、見ていてちょっとしんどくなった。
懸念を述べている人たちを見ても、別にスープストックの試み自体を否定している訳でもなく、単に雑然とした都市部において静かに、しっかり休める場所が減ってしまうかも知れない寂しさがあると述べているだけなのに随分と人格否定が多くて驚いてしまった。(まあ子供が騒ぐものと一律で断じている方もいらしたのでそのカウンターとも取れるが)
休憩というのが静かなものなのかワイワイしたものなのかは人によると思うけど、何というか、自分からすると静かさを求めるお客さん側の気持ちもとても分かる。
スープストックのお客さんからして相容れない部分もあるかも知れないけど、多分、愛煙家の吸える場所がどんどん減ってしまっているのと多少近い悩ましさがある気がしている。まあ自身はタバコ吸ってないんだけども。
「こんなに頑張って、自分のためだけどその過程で世の中にもそこそこ貢献してると思ってるのに、どんどん休まる場所がなくなっていく」みたいな寂しさというか。
勿論、世の中の変化に合わせていける、その中でも暮らしていけるんだけど、完全に気持ち良くとはいけなくて、だったらこの仕組みによって気持ち良く過ごせる人たちと自分の差は何なんだろう?と。
そんな疑問を持っても、その仕組みで気持ち良く過ごせている層から「否定的なことを言う奴はヤバい」みたいは人格否定をされると暗澹たる気持ちになる。
そう言ったことを漏らせる場所はもうないんだなと思うと共に、これに限らず自分たちを正解と相手に押し付けたり、間違いだと断じたりし過ぎな世の中を見ているとどっちの立場の人もとにかく余裕が無くて辛くなってしまう。
自分の好きな場所が自分と異なる好きの解釈がされる事への拒絶っぷり。
もう少しだけでも良いからそんなものだよなと共存させて欲しいなと今回のことでも感じてしまった。


またー。