旦那デスノートというサイトを延々と読んでいた。匿名制のサイトの中では突出して語彙数が少なく、反比例するかの様に憤りの度合いが凄まじい世界だった。
何がどうしてこうなった、を全て端折って怒りに直で繋ぐ姿勢は思いの強さの表れである。そして、匿名制なので何も見えない分だけ手加減しなくて良くなる。表現の既視感、集約される語彙、定型文化されていく十人十色の痛み。
このサイトに対しての感想は「別にあっても良い」に尽きる。
一方、それに対するアンサーとして爆誕した(と紹介されていた)のが「俺の嫁が可愛い」なるサイトであり、これもまた個人的な感想としては「別にあっても良い」しかない。
ただ、旦那デスノートに対するアンサーという持ち上げられ方がミスマッチ過ぎやしないかという気持ちで一杯である。
これはそれぞれのサイトの問題ではなく、その様な取り上げ方をしたメディアに問題があるというだけなのだけれど。
構図として一見クロスカウンターに見えるものの実は遠近法を駆使してすれ違っているだけでした、みたいな明後日感を僕は非常に感じている。
大体、「旦那デスノート」を酷いと言い「俺の嫁が可愛い」を素晴らしいと思う感性の持ち主に「旦那デスノート」の切実さなんて理解出来ない。ネタで、ストレス発散で書いている人もいるだろうけど、ここでしか発散出来ないという人がいる限り必要なのだと思う。
加えるならば、「旦那デスノート」に本心から書き込む人にとって「俺の嫁が可愛い」は回復薬になるのであろうかという思いもある。そんな素晴らしい旦那が世の中にいるのかという希望を抱かせるのだろうか。どっちかと言えば真面目に全部受け取ったとしてより絶望が深まるのではないだろうか。手持ちのカードが違い過ぎる。絶望のデュエルモンスターズではなかろうか。
そして、旬が過ぎたかの様にどちらの話も人から聞かなくなってしまった。旬とカテゴライズ出来てしまう人たちは、特に「旦那デスノート」を悪く言うべきでは無い、と今更ふと思ったので書いておく。
暗い話ではないつもりなのだけど、そう取られても仕方のない話をついでに1つ書いてしまおうと思う。
実の家族の話ではあるのだけれど、僕はあまり家族に対する執着も愛着もあまり無くて、それが何故なのか時々ぼんやり考える。
その時々は、あまりに連絡しない僕に対して親がメールを寄越す時で、大体3ヶ月か4ヶ月に1度やってくる。
別に親を恨んでもいないし、とても感謝しているし、だから呼ばれれば会いに行くのも全く苦じゃ無い。でも自分から欲したり、発した事はない。て言うか「苦じゃ無い」って何だ?と我ながら思うんだけど「苦じゃ無い」が一番しっくり来るので仕方がない。
それは、何かが欠落しているのかも知れないし、そんな大した問題でもなくそういうものなのかも知れない。だけど、ぼんやり考えてしまう。
そうやって考える度に1つの仮説に辿り着く。
僕は家族の中で手のかからない子供という役割を勝手に負い、既に全うした気でいるというものだ。
母は仕事柄他所の子供の相手をしており、僕は他所の子の世話をする母の帰りを待ちながら家事の手伝いをして過ごしていた。
でも別に学校が終わったらすぐ家の手伝いだった訳ではない。僕の門限は5時だった。早過ぎるだなんて思ったことはなかった。親も目一杯遊んでも当番をこなせば喜んでくれたし褒めてくれた。サボっても別に怒らなかった。
だけど自分の母は他所の子供の面倒をみる為にいるのだという気持ちが強く、手を煩わせない様にしようという意識がとても強い子供だった。その割に成績はそんなに良くなかったけども。どうにもツメが甘いのである。
反抗期もほぼ無く、常に親が安心する方を選んだ。決して強いられた訳ではなく、ただそっちの方が良いと思ったからである。
全ては緩やかで、自然だった。
僕には妹が一人いて、その妹は僕とは逆に親の迷惑を考えず、良い事も悪い事もとにかく自由に選んだ。
ワガママを言う、言うことを聞かない、学校に行かない、親に学費を払わせて身につけた技術で就職した業界も呆気なく辞める、親も会ったことのない男とデキ婚する。
単純にスゲーと思った。憎いとも、羨ましいとも思わないし、憧れもしなかったけどスゲーなコイツと思った。そして僕は勝手に「コイツの分まで手のかからない子供でいなくては」と思った。
妹が荒らした家の中で、自分だけは淡々と普通でしっかりしようと思い、振る舞った。
自分が就職してからは、妹がデキ婚して実家を出るまで毎月小遣いをあげていた。妹と、あと親にも記念日や誕生日やクリスマスや正月にプレゼントを贈っていた。妹の、父の、母のそれぞれの話の聞き役が僕だった。
なかなか手のかからない息子であったと思う。
ただ、長い目で見てどうだったんだろうと思う。手が掛かって仕方なかった妹は結果として世間一般の親が欲する(とされるが実際は知らない。親じゃないし)「近くに住み、よく顔を見せてくれて、孫がいる」を全て実現しているし、色々手を煩わせたという自覚もあるのか、とても僕を含めた家族に感謝し大切に思っている様子であるし、両親も楽しそうである。
一方僕は、自分を献身的に緩衝材として使った挙句に執着も愛着も無いなどど供述しており、勝手にフェイドアウト気味である。書きながら不思議なのだけれど、寂しくないし、後悔もしていない。
ただ何となく、そんな感覚でいる事を家族に申し訳なく思っている。
僕の家族は皆いい人で仲も良いし、とても感謝している。
好きよりも先にいい人だの感謝だのが飛び出す自分を、家族に申し訳なく思っている。
だからそれを悟られないように、仲良くしていくこと(幸いそれは自然に出来る。だって仲が良いから)が自分に出来る孝行なのだと思っている。
うわーイタイ事書いてんなーと思う人も、意味不明だなーって思う人も、お前のような人間は許せないという人もいるかも知れないけど、あくまで自然とそんな人間になってしまったので仕方がない。
こう書いてしまうと何だか矛盾している点も多い気がするのだけど、矛盾してるけどスッと収まってしまっているので、これが自分にとっての対肉親の自然なのだと思う。
その他人付き合いや感情表現については、人に共感してばかりなので普通なのだと思う。そう考えると家族とは特別なのだなと改めて感じる次第である。
なんにしても、今後も仲良く暮らしていきたいし、親も妹も元気でいて欲しいものである。
それに、心変わりというか考え方も少しずつ変わっていくかも知れないので、そんなに心配することではない気もする。
良くも悪くも人生は長そうだから。
またー。