性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

キラー・ナマケモノと真夏のポトフが残す爪痕

アマゾンプライムビデオの見放題配信作品に「キラー・ナマケモノ」という動物パニック映画が追加されていたので観た。
「コカイン・ベアー」がちゃんと映画として出来上がっていたので味を占めてしまい、「キラー・ナマケモノ」という意味不明さのギアをもう一段階上げた代物にも躊躇わずに飛び込む事が出来た。
これは勇気というより麻痺に近いと思う。
とは言え、キラー・ナマケモノもちゃんと映画で楽しんで観られた。全く怖くないのだけが難点なような、むしろ放棄している様な、滅茶苦茶強いナマケモノが人間に裁きを下すという設定で最初から最後まで突っ走る映画で凄く良かった。
アメリカの学生寮ヒエラルキー的なものを新鮮に楽しみつつ、何かナマケモノが荒れ狂っているのを楽しむポップコーンムービーである。
動物がヤベェと言えば恐竜を除けばサメかワニかヘビみたいなところもあり、クマですら珍しいイメージだったけど、動物パニック映画も出オチ上等で意欲的に意外性を追求しているんだろうなと思うと、そういう三振かホームランしか狙っていない旺盛なチャレンジ精神に励まされる所もある。ロマン砲ってやつか。
そのうち「キラー・アザラシ」「サイコ・フラミンゴ」「マーダー・アルマジロ」みたいな作品が生まれるかも知れない。
次は何がくるのか楽しみに待ちたいし、そういう作品を映画館に観に行ける冒険心(ギャンブラー精神とも言える)を育みたいものだ。


それはそうと夏の鍋料理を人々が避けがちな理由は「暑いから」というのが他の追随を許さない勢いでぶっちぎりの一位だと思うが、僕はそれに対して「本気でそう思っていますか?」と訝しんでいる。冬に暖房が効いた部屋で食べるアイスが美味しい様に、夏に冷房が効いた部屋で食べる鍋物だって美味しいに決まっている。
夏に鍋物を避けたい本当の理由は、「熱いものを食べてかいた汗が冷房でお腹が冷えてしまい痛くなってしまうから」だと僕は睨んでいる。目力というものに縁がないので説得力に欠けるが、懸命に睨んでいる。ガンを飛ばしている、と言っても差し支えない。いや、ある、別に憎しみとか込める話題じゃないしな。
僕は「野菜が食べたいが料理が面倒だ」と週に3回はなるので、そのうち1回くらいはポトフを年がら年中食べている。秋冬だけでなく、春も、そして真夏でも食べている。
ポトフはコンソメと野菜とウィンナーかベーコンかササミを放り込んでおけば出来上がる簡単メニュー(本格的なポトフはそれでは済まないかも知れないが、あくまで僕がポトフと呼んでいる料理はそうなのでポトフガチ勢の方には申し訳ない)なので、待ち時間に洗い物などが出来て食後の満腹感を引きずって家事をしなくても良いという利点もあり、大変助かっている。
限界まで疲れている時はコンビニなんかのお世話になるが、その手前くらいまではポトフに助けて貰う。別に好物という訳ではないが、古い洋画や世界名作劇場でスープをメインに食べている海外の人たちに親近感が湧く。根っこは違うと思うので一方的な片思いではあるが。
そんな訳で夏にもポトフを食べるが、温かいを通り越して熱いのと代謝の良さでダラダラ汗を流しながらの食事になる。
食後、その汗がエアコンの冷風に冷やされ、そこそこな頻度でお腹が痛くなる。
そうなる前に着替えればいいんだけど、食休みを挟んでお風呂に入って寝るだけという状況が、Tシャツ1着と言えども洗濯物を増やしてしまう事を躊躇わせる。
洗ってくれるのは洗濯機だけれど、干すのも畳むのも自分の役目。家事という競技において一番苦手な種目が洗濯物畳みなので機会を減らしたいという欲が勝ってしまい、時折お腹を冷やしてしまうのだ。
棚上げなのか下げなのか解らないが、僕だって世界で一番怠惰という訳でもないと想定すれば、僕は所詮同様に鍋物でかいた汗を冷房で冷やされて腹痛を起こしている氷山の一角に過ぎないんじゃないかと睨んでいる。
夏の鍋料理を人々が避けがちな理由は「暑いから」ではなく「熱い鍋でかいた汗がエアコンで冷えて寒い」から...Q.E.D!(ユニゾンスクエアガーデンのマネしながら)
何も解けてないけど、氷山は鍋の湯気で溶けてるんじゃないですかね。知らんけど。


またー。

煮干しとフィナンシェのダンス

筋トレした夜、寝る前に小腹が空くので煮干しを7、8匹食べてから眠りについている。
出汁用の徳用パックから直に適当に掴んでボリボリ食べているんだけど、味は濃いし、ハードな食感だし、何か身体にいい気もするし、意外と飽きないしで半年くらい続いている。
どういう仕組みか「出汁2倍」をとることが可能と謳われた商品で味が一層濃くて美味しいし、量も多くて大変重宝している。味の濃さで言えばポテトチップスのコンソメ2倍とピザポテトの間くらいだろうか。ジャンキーさはないが双方に匹敵する満足感がある。
せっかく出汁が2倍とれるような煮干しをお求めやすい価格で世に送り出したのに、一切出汁をとらずに何袋も食い尽くしていると製造元が知ったらどんな気持ちになるだろう、と若干の後ろめたさはあるものの、食べても美味しい煮干しを売ってしまった事が招いたイレギュラーだと目を瞑って欲しいな、と思いながら今日もバリバリ言わせながら食べている。健康生活が過ぎるぜ。


夏の全国高校野球選手権の期間中、大社高校について何度か調べていたせいか検索サイトに鳥取県民共済の広告が表示されるようになったのを一度は「鳥取ねー」とスルーしてしまったんだけど、大社高校は島根県の代表校だった。何をサラッとねじ込んで来ているんだ。あれほどネット上では張り合っている風なのに。ビジネスとして敵対する方が美味しいとかそういう関係性なんだろうか。鳥取にも島根にも住んだ事がないので解らないけれど、どちらにも行ったことがあるし楽しかったので仲が良かったらいいなと思う以外出来ることがないし、僕が何かする必要も再訪する以外はないのだろう。


多大なる被害を引き起こした地域もある中で幸運にも大阪は台風10号の被害が特になく過ごす事が出来た。
それでも強い勢力を保ったままやってくるのでは、という予想が備蓄目的の買い物を誘発してしまい、前日には元々品薄でパニックと化していたお米だけでなく、カップ麺の棚もかなり空きが目立つ状況となっていて「危機感が重なると大変な状態になるんだなぁ」と感じながら棚を眺めていた。
その中でパンの棚も見事に売り切れており、綺麗だなーと思うくらいだったのだけど、何故か2個入りのフィナンシェが一袋だけ残っており、思わず「フィナンシェが2つ!」と呟いてしまった。
そもそも焼き菓子という部門まで売り切れているのに、最後の最後に残った一袋のフィナンシェ。
そもそも大阪という県民性、そしてこの自然災害への備えを持ってしても「遠慮の塊」と呼ばれる、最後の一つが敬遠され続ける現象が起こるのかと心底驚いた。
お米やパンのよりも優先度が落ちるからこそなのかも知れないが、周りの焼き菓子も、そもそもフィナンシェもその一袋以外は売り切れているんである。
遠慮の塊以外の何者でもない。
折角だし買おうかなと思いつつ、インスタントのラーメンをカゴに入れてしまっていたので見送ってしまった。僕もまた遠慮の塊をより遠慮の塊たらしめる一員(一因)となった。
数ある都市伝説もこうして沢山の人たちの何となくの選択で伝説となっていったんだろうか、とか、割と方向違いのことをぼんやり考えながら帰った。


またー。

日傘技術者検定対策を科学的裏付けでサポート

日傘を日常的に活用するようになってまだ2年目なのだけれど、風に遊ばれてしまう。
振り回されてほぼラブコメの主人公みたいになっている。絵的に観れたもんじゃないのが申し訳ないが。
雨傘と何が違うんだよと自分でも思うんだけど、濡れる事よりも、暑さ及び日に焼ける事から逃れたい気持ちが力みを生んでしまい、上手く風を受け流さないせいで変に腕が疲れたりするのかも知れない。
週に何日も運動しているのにそれよりも日傘を使う方が腕に疲れが残る。
不器用さもさることながら単純に経験値が足りないのだと思うので、毎年ちゃんと使い続けたいなと思っている。
先日「身体鍛えてるのに日傘使ってるんですね」というどこに掛かってるのか解らない何の説得力もない文章でdisりを受けたので、それに対する反骨精神もあって、とりあえず柔道で言う黒帯を目指したい。
日傘って技量で聖徳太子の冠位十二階みたいにバンド部分が色分けされたりするんですよね?まずは小智の薄黒になれるように頑張りたいですね。それすら果てなき狭き門ですが。


世間はオアシスの再結成に沸き立っており、多分に漏れず僕もまた喜んでいる。高校生の頃に聴いたMorning GloryやHeathen Chemistryの事を思い出して、新しいアルバムを発表してくれたりするのかなとワクワクしてながらブラーのTシャツをネットでポチっていた。https://www.biotop.jp/

滅茶苦茶可愛い。
オアシスvsブラー論争に熱を上げた先輩方からお叱りを受けそうな行動に、偶然ながらもUKサイコめいた自分自身に若干引いてしまった。
洋楽好きの大人たちから聞かされたものの実際にその論争の熱を肌に感じる事が無かった為に生まれてしまった悲しきモンスター。
サマソニでブラーを観ながら「オアシスもいつか観れたりすんのかなぁ」と思ったりしたので、そんなボンヤリした願いが、他の強く強く心から願っている人たちの希望の後からおずおずとついていく形でもいいから叶えばいいなと思っている。
ちなみにブラーはベタにParklifeが一番好きです。


最近、アマゾンプライムビデオで「三体」というドラマを観ていて、これを書いている時点で4話まで物語を進めている。
エリート科学者が超然的な怪異に立ち向かっていく物語になるのではと予想しているんだけど(違うなら予想が外れるだけの話)、とにかく科学の話が難し過ぎて全然解らない。説明してくれてるんだけど何か凄い現象なのだろうというくらいしか解らない。科学者同士の会話が多くて、やったことの無いゲームの専門用語が飛び交っているくらいのニュアンスで会話を聞いてしまっている。
それでも滅茶苦茶面白いんだから不思議だと思う一方、子供の頃は難しい部分はそのままで理解し切れなくてもその張り詰めた空気感自体が面白くて興奮したよなと思い出した。
科学や宇宙を題材にした映画や、未来を舞台にしたアニメや漫画なんかの物語自体の面白さだったり、これが面白いって事は大人の仲間入り出来てしまってるんじゃないかという背伸びした肯定感なんかが入り混じって、正しい理解の上の面白さとは違うものの、色々な作品を子供の頃は楽しんでいた気がする。
ある程度の理解力が培われた今となってはそういう楽しみ方はあまり出来なくなった。予想がついたり、推測出来たり、または取っ掛かりがないような作品はそもそも選ばなくなったりと言った風に。
無知故に子供の頃の様な楽しみ方が出来ているぞ、と久々の感覚を作品自体の面白さと同時に味わえて中々に得した気分でいる。
ネタバレを踏んでしまわないうちにどんどん観ていきたい所存。


またー。

どちらのホライズンがよりホライズンでしょうか?

友人から懐かしの英語の教科書シリーズ、ニューホライズンがヤバい販促動画を公開しているという情報を得て、まあまあ学校で使う教材を売ろうって出版社がそんなヤバい動画を投稿している訳ないでしょ?と思って観てみたら確かにヤバかった。

【東京書籍】NEW HORIZON 英語の広場 水平線の彼方に 僕たちの新しい教科書
ニューホライズンエレメンタリーシリーズの狂信者という夫婦が、同じ熱量で互いとニューホライズンへの愛の惚気を炸裂させる連続短編ドラマが10話に渡って展開されていた。
英語の教科書なのに当人たちが英語を口にするのが4話まで待たされたり、日本や世界の観光名所や名物を英語で学べるという面白い機能に感化されて日本一周旅行に繰り出したりと中々面白い。
こんな2人の間に生まれるニューホライズン2世はどうなってしまうのか、今村夏子さんの「星の子」を思い出した。
宗教2世として生まれ育った主人公が社会との差や家族関係に葛藤する作品で、何というか物語が現実に生じて続いたら重なる部分がありそうだなぁと思った。
雰囲気は映画版に近いが、価値観は明るさ故の裏面の重たさ的に原作に近いのではとドキドキしてしまう。

何にしてもこれを導入側がどう受け取るんだろうという感じだけど、作り手としては大変楽しそうで何より過ぎる。

これまでの信頼と実績の歴史が土台にあるから投げ込めるぞ、というのは色んな人気商品のCMであるので教材業界もこういう攻め方をしている商品が他にもあるのかも知れない。

新規参入でバズりたいでは到達できない自由さである、という前提を認識した方が面白いのは、大御所芸人さんが異常に体を張ってる時の面白さに似ている様な気がした。
僕個人はニューホライズンで学んだ訳ではなかった気がするが、メイリンという中国出身のキャラクターがお気に入りだった記憶がある。
メイリンも同い年だとしたら、今どこでも良いから幸せに暮らしていてくれたらと願う。


ニューホライズンエレメンタリーの話を聞いた翌日、サマーソニックの大阪1日目の大トリでブリング・ミー・ザ・ホライズンを観た。ホライズンめいている。もうこれほぼ神話だろと自身の境遇を思って感極まったが、どう考えてもただの茶番だった。
BMTHのライブはニセプレステのニセFFっぽい世界観で展開されていて、AIやハッキングやオープンワールドめいた世界観でオーディエンス登壇型ミニゲーム要素まで含めて滅茶苦茶面白かった。
映像に効果的に客席を取り込んで一緒にゲームをプレイしているような気持ちになり、映像を駆使してセトリ自体の物語を更にバーストさせる方法はサントラがヒット曲ばかりのハリウッド映画みたいな迫力があって凄く楽しかった。
激しめの曲においては好きな曲も大体聴けたし、まさかここまで視覚的にも楽しませて貰えると思っていなかったので大満足だった。
初日はCreepy Nuts、TYLA、Auroraなどのんびり観る中で沖縄のバンド、HOMEが破格に良かった。
パビリオンステージというドラムセット組めないけどサイケな格好良さのあるステージにどハマりする存在感があってライブハウスにも観に行きたいなと心底思った。自分のタイムテーブルを考える際にこれは好きだろうなとリストに入れておいて本当に良かった。自分の好きなものを逃さない嗅覚がまだ自分に残っていたことを褒めてあげたい。
TYLAとAuroraもラインナップに加わった頃から楽しみにしていたので何だかんだ初日から忙しかった。
2日目は弁天ランドを観に早起きしたおかげでアンダーワールドのリハーサルを観られるという幸運に恵まれる。良い日になるだろうと思ったけど本当に素敵な1日になった。
弁天ランドの「記憶に溶けて」でちょっと泣き、RIIZEのアイドルとしてのカッコ良さと曲と同じくらいMCがファンへのキラーチューンとなっている文化に感心した。フルで韓国のアイドルのライブを観られる機会なんて普段ないので感動して元気になってしまった。
STEPHEN SANCHEZのレトロかつ大変に若々しいライブとMADISON BEERのバチバチに格好良い歌姫っぷりを堪能する間に最悪レベルに音被りする2つのステージを逆手に2組の転換中にanoちゃんのライブを丸々聴く事が出来た。
anoちゃんも格好良かった。演奏を目で見られていたらもっと良かったんだろう。
Vaundyは想像以上に煽ってくる割に優しい曲が多くて好きな曲!また好きな曲!という楽しさが勝った。
やっぱり周りに住宅や病院がある関係上、メインステージの音が滅茶苦茶小さくて、後方で見るとリハと本番の区別もつかないくらいの音量なので、好きなアーティストは頑張って半分より前で観た方が良いと気付きになった。
ただ大阪会場のロケーション、交通の便は最高。
非常に過ごしやすく、大変かも知れないけど今後も続いてくれたらいいなと思った。
Vaundyの学びを活かして前方で観たマネスキンは本当に素晴らしかった。
開演予定時間より早く始まったステージはほぼワンマン。前日のBMTHと対照的に何の演出もない、カメラもモノクロのままという無骨なスタイルで、それでも出し惜しみなくぶちかましていて本当にロックスターだった。
このために頑張って働いて来たんだよなと泣けてしまった。
次の日からの仕事も割と大らかに頑張れてる気がする(暑さが蓄積して疲れてるけど)のでこの調子で8月を乗り切っていきたい。


またー。

オシャレおにぎりランキング、カウントダウン!!!

ハードカバーの書籍を今度買おうと思ってちょっと先送りしているうちに文庫化されている事が増えた。
サイズ的にも価格的にも文庫化してくれて有難いのは間違いないけれど、自分の「ちょっと」が年単位になってしまっている辺りに随分と大人になってしまったなと感じる。時の流れが早過ぎる。
ハードカバーで読んだ作品が文庫化された時の「面白いんで文庫になってもっと沢山の人に読まれるの嬉しいですわ」という気持ちと共に「ここに至るのにちょっと役立てた」という満足感は中々誇らしいものなのでハードカバーのうちにどんどん読んでいきたい。


オシャレの条件の一つとして「手荷物の少なさ」というのは余りにベタな、それでいてある種の鉄則として謳われ続けている。
どのくらい長年愛されているかと言うと、恐らく「天城越え」よりも長く歌い継がれている可能性が高いほどであり、つまり「津軽海峡海景色」よりもやはり長い歴史があるという事だ。
突然、石川さゆりさんに舵を切ったのかは我ながら解らないが、多分着物だけでなく私服もオシャレだなぁと思ったことがあるからで、男性であれば峰竜太さんが非常にオシャレで、僕のインスタにおける主な用途が好きな野球選手の投稿と峰竜太さんのファッションスナップを見るためだけに活用されている事をここに記しておきたい。絶対に違う使い方が沢山あると思うが、あとは最寄りの百貨店のスイーツコーナーの投稿を観て指を咥えるくらいしかしておらず、要するにインスタを使いこなす才能がないのだと思う。
そこからもう十分過ぎるほどに察せられるだろうが、オシャレから中々に引き離されてしまった自身の現状である。要するに手荷物も少なく済む事がほぼない。
電車で二駅にぶらりと出掛ける場合にようやく財布とスマホとハンカチくらいの軽装を成せるが、繁華街に向かうとこれに何やら追加されてカバンは割とパンパンである。
どのサイズのカバンを選んでも何故かパンパンになってしまうという度し難いバグについて深掘りしだすと学会発表レベルの事前研究が必要となるだろうから丁度夏だし学校の怪談、七不思議的なものとして背筋を冷やしながら愛でるに留めたい。
そんな僕なので夏の高校野球選手権大会を観戦しに行くにあたり、荷物は桁違いに増える。
通常装備に加えてタオル、折り畳みクッション、日焼け止め、日除けのパーカー、ゲリラ豪雨警戒の百均のカッパ、ウェットティッシュに汗拭きシートなどなど。毎回完全にリュックサックの出番でさながら小旅行である。
急な泊まりどころか遭難しても一晩明かせる気がしている。(幸いどちらも回避して無事帰宅出来ている)
そんなオーバーツーリズム(違訳)な僕をよそに、真夏の過酷な環境、ほぼコンクリートジャングルな甲子園にも手荷物がやたらと少ない人たちはいる。
スマホと財布、あとはハンディーファンか道中どこかで貰ったであろう企業広告を兼ねたうちわだけを持った猛者たちである。
オシャレを通り越して強靭過ぎる気もするが、だとしてもやはり手荷物が少なくてオシャレに感じられ、しかも何故か自分より涼しげに見えてしまい何重にも敗北感を喰らってしまう。
自分がこんなに頑張って準備してきたのに何も持っていない人たちの方が快適そう(に見える)意味がわからない。
オシャレは我慢とも言うし、鍛えられ方が違うんだろうか。頑張って荷物を持って来た自分も努力しているつもりだが、頑張る方向性を間違えているのかも知れない。
同じ現象が夏フェスでも見られ、どうやってあのオシャレではあるが無課金初期装備のようなアイテムの少なさで快適そう(に見える)なんだろうかと困惑してしまう。
オシャレのハードルが高過ぎて頭をぶつけ過ぎて過ぎているのか、最近では判定を下すセンサーがぶっ壊れてしまっており、何がオシャレなのか自分では決められず、色々な人がオシャレに見えてしまう。
今日も甲子園球場の外周をのんびり歩いている時に、何故かオムライスのおにぎりだけを片手に握りしめたTシャツ短パン(ポケットから覗く革財布)の男性が颯爽と球場の入り口に向かって歩いており、マジ持ち物として何の意味も解らなかったんだけど心底オシャレに感じて見惚れてしまった。
そこはせめて水分だろうと思わなくもないが、オムライスのおにぎりが夏らしい原色ベースの差し色として機能し、ワンポイントのアクセントとして選ばれたのではという可能性を捨て切れない。
あれはオシャレなのか?そんな訳がないのに「どっちなんだ???」という気持ちに自信が持てない。
帰りの電車でずっと反省会を催し、もう解らんものは仕方がないので自分において満足と快適を目指す他ないという結論に達した。背伸びも大事だけどアキレス腱切ったり足をつってしまったら意味がないのでな。
何にしても今日からサマソニである。
好きなアーティストを楽しみながら、自分にはない鍛え上げられオシャレアスリートと化したカッコいいオーディエンスに感心するなどして過ごそうと思う。


またー。

続く事に無頓着な僕に何が始まるんだろうか問題。

名探偵コナン展に行ったら懐かしい場面が沢山あって、その大半が殺人事件の犯人によって彩られている事に気付いて大分ホラーだった。とは言えちょうどお盆休みなので少しずつ読み返している。大人気犯人の図書館の館長より先に平次くんが登場していた事を再認識させられ、なんやて…である。各種人気(?)の犯人のセリフをカルタにした呪物の様な代物を物販で買った。呪われた日本人形よりも呪力が高そうなので魔除けと称して枕元に置いているが、2週間足らずで2度悪夢をみた。


長期休みに突入すると毎回ちょっと重めのテーマの本を読むという習性、もとい癖がある為、今回のお盆休みにも何かそういうシリアスなテーマの本を購入しようと企んでいた。夏になると怖い話を欲する人たちの事を身近に感じているが、相手側からすると一緒にされたくないだろうな、と思う。風情の不足というか。

ただ、日頃の仕事があんまりに忙しく、避難という言葉がすんなり添えられてしまうほどだったのもあり、管理職人生ここに極まれり、歳を取ると責任を金に替えてやっていく他ないんだし…という控えめな絶望に憑依されていたのもあり、単純に自分の想像出来る範囲内での先輩は自分の加齢をどう捉えているんだろうかという興味により選んだ一冊がphaさんの「パーティーが終わって、中年が始まる」というエッセイだった。

米軍のマーケティング、地方消滅、薬物ルポなどなど、直近の長期休みを盛り下げたテーマからすると一見ほんわかした風にも感じられるが、手を伸ばしても微妙に届かないくらいの距離の先輩から「俺、もうボーナスタイム終わってるかも」みたいな話を聞かされるのは別ベクトルの恐怖がある。そう身構える内容ではないんだけど、コミュニティーの中でうまくやれている人以外が聞くと随分な威力がある。あまり線引きをするべきではないけど、都市部に住む30代で交友関係を広く維持していない人にこそ刺さるどころか突き抜けて向こう側が見えてしまう気がする。向こう側を見る事で心の準備が出来るし、漠然としたものはそのままでも肩の力は少し抜けるので、激痛足裏マッサージみたいなものなのかも知れないと今は思っている。

phaさんがこれを書いたのは40代頭から半ばにかけて、都市部で一人暮らしをしている男性の若かった頃と現在を見比べた時の気付きが綴られている。

元々インターネットで面白い事をしようぜ的な流れから活躍の場を広げられた方との事で、ちょうどブーム的に終焉に向かっていた時期に新参者として読み漁っていたテキストサイトの雰囲気が文体に残っており、懐かしさと親近感もあってスラスラと読むことが出来た。昔はこんな面白い文章を綴る人がゴロゴロいたんだよなぁ、どこに行ったんだろう、と思ったけれど、読み進めて彼らがそれぞれの生活に進路を変えただけで、自分がぼんやりと元の道を歩いているだけかも知れないと感じた。

これまでの人生で抱えてきた歪みからも歳を重ねて成長すれば解放されるだろう、という淡い期待について率直に「これからも振り回され続ける、それが人生」と言ってくれて、あぁ大人になるって解放されるんじゃなくてむしろそう言う事に気付いて「じゃあどうしようかなぁ」と考えたり出来る事なんだなと思えた。

きっと凄いなと感じる周りの大人たちも解決出来た事ばかりじゃなく、諦められた事もたくさんあるだろうに、凄い大人にそんなんある訳ないしそれに比べて僕は…なんて言ってる暇があるなら自分の取捨選択をやってみなきゃなと思った。

どこか違う場所で違うことをすれば新しい自分と出会える、なんて願望を心のどこかにずっと持ち合わせていて、こんなのインド旅行論者と何も変わらないし、そりゃ30代に異世界転生流行りますわと反省した。自分があまり異世界転生を楽しめないのも、ある種の同族嫌悪なのかも知れない。面白くないなんて事を言いたいんじゃなく、自分の嫌な部分が刺激されてしまうのを無意識に恐れて避けてきているんだと言う意味で。

「中年の不要な存在感」というフレーズも近い将来の自分を想像する上でかなりの痛みを伴って響いた。年々、自分が思っているよりも社会の中で自分の存在感は増していると感じていた。威厳や影響力じゃなくて、鈍く、重く、認知されやすくなっているだけ。俺でなきゃ見逃しちゃう手刀だった20代から、ハエが留まりそうなパンチというか。

ステルス性が下がって「普通」という評価を得られるハードルが徐々に高くなっている自覚は管理職に就いた頃からあって、大してそこから成長していないのに、それを毎回冷静な顔で飛び越える事を合格点として求められ続けている。

日々、やるべき仕事や家事に真面目だけど、本当にやりたいことが何なのか分からないし、探す体力もない。その言い訳に真面目であらんとしている。

最低限だとしても褒められた事ではあるという一点に縋って、それを完遂しようとしてきた気がする。

自分で自分を褒めたい気持ちは素晴らしいと我ながら思うけど、もうちょっと目的を考えたらいいかもなぁ、と肩を落とした。

これからの立ち上がり方に期待をかけて、ちょっと汗かいても頑張りたいものだなと同じくらい思うけども。

著書をたくさん出版されている方に失礼かも知れないけれど、文章を書く事についても凄く自分と重なる捉え方をされていて、「文章にはリアルタイム性がないから満足いくまで治せるという安心感がある」と述べられていたり「誰かが面白いと思ってくれたらいい、あわよくばチヤホヤされたい」的な事を述べておられて、mixiや複数のブログに場を変えながらも毎度延々と大学生の頃から日記帳に書いていれば良いことを書き続けている自分のスタイルと重なる部分があって「先輩、マジ解るっス」と手を挙げざる得ない。完敗だ。

随分とつまらなくなったSNSを未だに普通に覗いてしまう事も「Twitterは人間の怒りや嫉妬と相性が良すぎた」という話に共感出来た。

問題は起こらない方がいいけれど、誰かが怒っているのをみて自分より人間らしい人間がいる!と安心できてしまう側面もある。

自分自身が社会の中で怒る事も随分減ったけれど、これも場面によれば自身が怒られる側に立つこともあるという社会の一員という自覚からくる諦めによる所が大きい。そこも後書きで記されていて、最後まで自覚させてくれてありがとうございます、と感謝と皮肉が混ざった気持ちで読んだ。

これだけの事を言語化出来るというのは専門的な事柄について語るよりも遥かにエネルギーを使うだろうし、格好がつかないのを厭わないというノーガードっぷりには畏敬の念すら覚える。良い先輩に出会えたな、という感じである。

大人って自分が思っているより更に地続きなんだなと再認識させられる本で、エッセイというのは毒にも薬にもならないんじゃなく、毒も薬も自分で選んで続けていくためのものなのかなと考えさせられる一冊だった。


ちょうどトリプルファイヤーの新譜「EXTRA」がリリースされてずっと聴いているタイミングでこの本を読めたのも良かった。

鬱屈した憤りがキャリアを重ねるごとに生々しく酒の力を借りる様になっていき、ここ数作品、どんどん声量が上がっているのが滅茶苦茶面白い。

複雑さを極めることでどんどんユーモアの扉を自作して開け放ってくる楽曲が緻密なコントめいているのに、そこに乗せられる歌詞が酒だの陰謀論だのバイトだのでおかしなギャップが生じているのが今回も凄まじい。どっちも表現として鋭すぎる。

冒頭の2曲は酒がないと力が出ない男を主人公にしたアルコールロックオペラめいており、終盤でも相席屋との距離感を描いているのが本当に良い。怖いくらい良いし、怖いから良い。

学校に居場所を見出せなかった作詞を手がけるボーカルの吉田さんの名言「塾での俺が本当の俺」が大人になっても何も変わらず「酒を飲んだ時の俺が本当の俺」と歌ってくれるこの感じはphaさんの本と同じくらいに「人生は続いてくし、人はそう簡単に変わりません」と言ってくれている気がして、僕にとって謎の相乗効果を生み出している。

どうにかやってこうぜ。(自分に向けて)


またー。

惑星直列の最中、あたそさんの本で選択のシーソーゲームを思う。

太陽系の惑星が太陽に向かって直列に並ぶ現象を惑星直列と言うらしい。僕はそれを何故か消耗品がまとめてなくなり、一気に買う手痛い出費を強いられるタイミングで毎回思い出す。
石鹸、シャンプー、トリートメント、化粧水、乳液、制汗剤、洗剤類、日焼け止め、油、コンソメなどなど。
毎月は買わないけど数ヶ月おきにはバラバラに購入しているその商品が何年に一度か、10個ほど同時に切れて買う羽目になるのだが、その時に「惑星直列みたいだな…」と思ってしまう。
随分と生活感溢れる、というか貧乏くさい嘆きを宇宙のロマンになぞらえたものだと呆れてしまう。
各月に分散された出費がまとめて降り掛かる為にお財布的には災難めいており、アルマゲドンのような心持ちにもなっている。物価高よ。
生活感と宇宙的なロマンをないまぜにする名手としてはPK shampooのヤマト・パンクスさんがおり、失礼ながら一方的なシンパシーを感じている結果、今では彼のネットラジオのヘビーリスナーである。
ラジオ番組はロマンもへったくれもない労働への嘆きと部室と喫煙所と居酒屋を行ったり来たりする様な下世話な話ばかりだけども。これが深夜でなく20時に更新されるのだから世の中はまだまだ意味不明である。
そんな彼らの新譜「輝くもの天より堕ち」では生活感と宇宙的ロマンの融合の方が遺憾無く発揮されており、歌詞がとても良い。
曲は彼らのダイナミックさを極端に短い尺に詰め込まれた感じになっており、まだ僕の耳に馴染ませている段階である。
その中で『夏に思い出すことのすべて』の「宇宙船がこんなに揺れるなんてあなたに信じられるかしら 誰に言うでもないさよならが手を振り泣いてるみたい」というフレーズがお気に入りである。
僕はこれを仕事の得意先に向かう為に乗ったやたら揺れる市バスで初めて聴いたんだけど、その状況も一役かって普通に泣いてしまうかと思った。
随分と話が逸れてしまったけれど、消耗品を数年に一度、まとめて買う羽目になってしまった時に僕は宇宙と自身を重ねてしまう。
自分を地球だとすればドラッグストアは太陽系の宇宙空間で、レジに並ぶ他のお客さんを他の惑星に見立て、直列となった偶然を奇跡みたいなものと持て囃す事で出費へのガッカリ感を紛らわせ、PK shampooが聴きたいなぁと思うんだろう。
何かそんな感じ。


あたそさんの本を一気に取り寄せて一気に読んだ。
『「結婚はしない」と決めました。ー結婚はしないで生きていくことを決めた12名の女性たちの決断、幸せ、未来ー』
『「結婚はしない」その先の生き方ー結婚を選択しなかった50代以上の女性8名の結婚観、展望、決意ー』
『喪失と回復』
上記の3冊をネットで購入した。
サブタイトルまで書いたのは内容をここに書くよりもそこを読んで貰う方が伝わるのではと思ったからで、どれも面白いので是非手に入れて読んで欲しい。タイトルのまんまの事を真摯に語り、それに対してあたそさんも真正面から気持ちを綴ってくれている印象だった。
サブタイトルのない『喪失と回復』は人の死など何かを失ってから立ち直るまでのことを色々な人に手記を寄稿してもらう形のオムニバスだった。
勇気を持って歩いて来た人たちの情熱や葛藤に素直に励まされたり慰められる気持ちがある一方で、そんな熱量も必死さも持ち合わせていない自分は結局どうしようかな…とボンヤリしてしまう側面もあった。
やはり、どうにかしたいと自分の足で進めている人たちというのは眩しくて、自分と二次元的には同じ座標にいるようで三次元にすると高低差が違う、みたいな感じ方もある、というか。
それにしても、選ぶと言うのは何かを手に入れると同時に選ばなかった方を失うという事で、結局何にしてもそこにある喪失感をどんだけ手に入れたもので上回っていけるか、みたいな所があると思っている。
今現在、自分は何だかんだやっていけているものの、やっぱり後悔も多いし、これで良かったのかなという気持ちはずっと自分の背後をついてくる。
段々近付いている気もするし、手を伸ばされたら背中に触れられてしまう、つかまってしまうんじゃないかと焦るものの怖くて振り返れない、みたいな感覚でいる。
あたそさんの社会人としての対人関係における憤りについて回る「こんな理不尽で酷い人間にもこの人が良いと選んだ家族がいる」という事実確認は何百回と繰り返してきたし、僕にとってもずっと信じ難い事のトップオブトップとして燦然と輝いている。
物凄く出世していたり、とんでもない難易度の職業や資格を有していたりとか、そんなものは「そういう事もあるかぁ」で容易に片付く。自分にとって理不尽な人間も、別に自分のために努力していても何ら不思議ではない。せめてその何らかの積み重ねの結果で他人に理不尽であって欲しいとすら思う。(勝手な願望だが)
勿論、自分に理不尽な人が家庭でもそうであるとも限らない。オンとオフの場合もある(オフに善人ぶって欲しいけども)
ここまで書いている事は別に切り離せる事ではなく、全部が一本の線の上にある事で、その中で僕が相手の線の「どこからが許せないのか」と言うだけだと解っている。
他方、西加奈子さんの生み出した名言に「許そう貴様も誰かの家族だ」というものがあり、これもまた僕の大切な価値観である。
あたそさんの抱く疑問の先に西さんの言葉があって、皆も大体そうだから大抵はやり過ごせて世の中は回っていく。そんな事をずっと考えていたら感想を書くのが随分と遅くなってしまった。
優しくなりたいし、ありたい。
もっと自分を大切に出来ないといつまでも遠いのかもな、と読んでいて強く感じた。


またー。