性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

場所と食べ物の相関性は寝落ちと悪夢のソレに近いみたいな。

場所と食べ物が結びついているという経験があるだろうか。

僕は人よりも食い意地が張っているという自負があるので結構あるんだけれど、周囲にそういう人がおらず寂しいばかりであるし、何かそういうの通り越して自分の単純さとか卑しさみたいなものの表れなんじゃないかと心配になることもある。

例えば野球を観に球場へ行くと唐揚げとポテトとビールが欲しくなるし、祖母の家に行くとコンビニに行きたくなるし、髪を切りに行くとビックリマンチョコが食べたくなる。

球場の例はまあ売店や売り子さんが売っているので伝わりやすいが、他は繋がりが人には解りにくい。

祖母の家に行くとコンビニに行きたくなるのは幼少期、祖母が都会に住んでおり交差点の4つ角のうち3つがコンビニであり、遊びに行く度にそのうちのどこかに連れていって貰ったからである。当時自分が住んでいた家も田舎では無かったが最寄りは山崎パン兼駄菓子屋みたいなお店であり、コンビニという無機質で最先端な存在に強い憧れがあったものと思われる。

髪を切りに行くとビックリマンチョコが食べたくなるというのは、幼少期に親に連れていかれた床屋が家族ぐるみでビックリマンシールをコレクションしており、食べきれないビックリマンチョコを梅酒を漬ける様な大きな瓶に目一杯詰めて客が自由に食べられる様にしていた事に起因する。シールに一切興味がないけれど食い意地が非常に張った子供だったので髪を切る為にというか食べたくなると伸びてもないのに髪を切りたいとせがんで親を困惑させた記憶がある。普通にスーパーとかで買って貰うという選択肢が浮かばなかったのはその店でしか食べられないものだと思い込んでいたのか、それとも買ってもらえないと思い込んでいたのかが思い出せないものの、今でも髪を切るとビックリマンチョコが食べたくなるという刷り込みだけが残った次第である。

因みにビックリマンには全然興味もないのだけれど凄く強い老人(ゼウス?)がとても苦手だったことをよく覚えている。自分の祖父母は腰が痛いだの動きが緩慢だったりするというのにこの老人は随分強いらしい、きっと世の中のお爺ちゃんお婆ちゃんのエネルギーを吸ってその機敏さを得ているのだ的な妄想でもって苦手であった。

よく考えられた設定ではあるものの、思い込みや言い掛かり以前に2次元と3次元を混同している残念感が実に子供らしい。

話が逸れている気もするので戻すけれど、そんな感じで何かをする時やどこかに行った時に今でも特定のものを食べたくなったり飲みたくなったりする癖が続いている。

大人になるとその辺には折り合いがつく、みたいな事を言われたのでまだ子供なんだと思いたいが、流石に子供を名乗るには無理しかない年齢の為どうすべきか、とこれを書いている今もボンヤリ考えている。

結論は出ていない。

 

それはそうと、「仕事で徹夜する」という悪夢をみて寝落ちから目覚め、げんなりしながらも深夜に家事をこなし、無事片付けて寝ようとする、という夢をみて寝落ちから目覚めた。

ややこしい言い方なので簡単に言い直すと「夢の中で夢をみていた」という事だと思うんだけど、実際の寝落ちから目覚めた瞬間は「家事までしたのにまた寝落ちしてしまったのか」というレベルの軽い自己嫌悪だったものの、実際家事をしていたのも夢の中の話であり食器も洗濯物もそのままであることに気付いてからは本格的に落ち込んで半泣きになりながら深夜に家事をした。春だというのに深夜の水はまだまだ冷たかった。

僕の直近の寝落ち悪夢コレクションとしては「猫を触るのが有罪の世界で懲役2年の判決を受ける」というものや「駅で揚げ過ぎて茶色になってしまったカリカリのゴボウみたいなEXILE系のウェイに絡まれて豚肉が好きという事をギタギタに否定される」というもの、「友人が所有しているAVを全て預かってくれと言われて承諾したら友人が入院して病死した」というものなどがある。実際は猫に触っても投獄されないし、豚肉が好きだからと言って責められる国ではないし、友人はAVを預けてこないし健在である。

この様に、寝落ちしてみる夢において悪夢である確率が割と高い気がしている。身体もさして休まらず、心もさして癒されない。寝落ちのダメージの深刻さを知りながらも人は寝落ちてしまう。

寝落ちる瞬間の心地よさには恐らく中毒性がある。

皆さんも寝転んでこんなよくわからない日記を読んでないでさっさと風呂入って歯を磨いて寝て欲しい。寝落ちしない為に。(と寝転んでこれを書いている)

 

またー。

おそ松さんを観ながらぬいぐるみを愛でる生活。

身長60cm、身幅が100cm近い巨大なぬいぐるみを買った。

それも予約販売で、店頭で予約票に必要事項を記入して見受けに要する代金を支払ったのは12月中頃だった。

それが今月の中頃、満を辞して我が家にやって来た訳なんだけど巨大な段ボールを前に真っ先に頭に浮かんだ感想が「一体、どんな精神状態でこんな大きなぬいぐるみを欲し、店まで予約へ赴き、15000円ものお金を支払ったんだろう」という過去の自分に対する心配をベースにした困惑と哀れみであった。

勿論、箱を開けた瞬間にそんなものは跡形もなく消し飛び(何故なら大きい分だけ可愛さも大きいから)、その手筈を踏んでくれた過去の自分への感謝に変わったのは言うまでも無いんだけれど、とにかく開けるまでは陰鬱とした感情が支配していた。

12月の自分を振り返ってみると随分な疲れっぷりで、誰も固くなった心身を緩和してくれる訳でもなく、ぬいぐるみの柔らかさに頼ってしまう傾向が強かった様に思う。実際この大きなぬいぐるみの他にも2点ほどぬいぐるみを購入していた。成人男性ぞ。我、成人男性ぞ。尋常でない。


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さて大きなぬいぐるみとの生活は程よい距離感を保っている様に思う。

抱いて眠る訳でもなく、愚痴を聞いて貰うでもなく、ただ横に座って本を読んだり、眠る前に目があって特に何も視線に込めず見つめ合ったりしている程度である。

大変愛らしい虚無感を讃えたつぶらな瞳とドライマンゴーの様な嘴を眺めていると妙に力が抜けて疲れがどうでも良い事へ転化されていく気がする。

IKEAだったりコストコだったり京都水族館の大きなぬいぐるみがバズる世の中であるからして、疲れた現代人の中に「大きなぬいぐるみ」という需要は計り知れない。

勿論、ぬいぐるみを迎え入れるということは生き物を飼うのと同等に責任が伴う(洗ってあげたり、干してあげたり、最期は人形供養に出してあげたり)ので多少のハードルはあるかと思うのだけれど、「恥ずかしいなんて思ってることが恥ずかしい」くらいの気持ちでこの子だと思ったら迎えてみてはいかがだろうか。

変われるよ。現に俺は変われた。という宗教勧誘漫画の様な劇的な変化は望めないけれど、家にいてくれると何となく良い感じになる瞬間が多少あり、それは大きいほど増す気もするのでオススメしたい。

 

映画「えいがのおそ松さん」を鑑賞した。

2期に渡るテレビシリーズの、特に1期がとんでもないヒットになっていたけれど、自分の狙った笑いを取り切る事に狂気的なまでに執着する故にホラーの様な仕上がりになることを厭わない姿勢が凄く面白くて観ていた。単発で常に違う獲物を狙っていたのも印象的で、それをどう劇場版という長尺でやってくれるのか楽しみにしていた。

何か普通にホロっとくる滅茶苦茶良い映画だった。「おそ松さん」の六つ子のキャラクターを最低限知っていれば誰でもしっかり楽しめるし、短編マシンガン構成でなくて1つの話をしっかりやる内容だった。

おそ松さんの笑いの取り方に「繰り返す」というものがあって、これが1回目が一番面白いネタを持って来て2、3と慣れに従って笑いのグレードすらも徐々に下げるというのがある気がしていて、徐々に平熱に近付けた方が次のネタのインパクトが出るからなんだろうなーと思っていて、本作もそれを感じた。ブレない。

やり切って詰め込みきった映画でとても楽しめた。

ニートで童貞なのが良いとは思わないけれど、自己肯定感や承認欲求の理想形ではあると思った。

 

春の選抜高校野球プロ野球の開幕戦を短期間に沢山、生で観戦した。

甲子園球場で行われているセンバツは7試合、京セラドームで行われている阪神タイガースの公式戦は開幕戦から3連戦を現地で観ており、特に詰め込んだ日は高校野球を3戦と阪神タイガース1戦を観戦した。

ルートとしては甲子園→京セラドーム→甲子園の往復であった。

どの試合も白熱しており、どちらが勝ってもおかしくない緊迫した試合で面白かったんだけれど、最後に見た智弁和歌山vs明石商業の一戦がドラマチック過ぎて涙が出そうで、それまで重ねた数々の試合が全部ぶっ飛んでしまいそうで焦った。

映画を1日にハシゴすると先に鑑賞した方がどうしても薄まってしまうのだけど、そんな感じだった。

この一戦、かなり押してしまって終盤はNHKですら放送が終わっているという事態の中、極寒の甲子園でラジオを除けば両校とその場にいた観客だけがリアルタイムで立ち会ったクライマックスの凄まじさは劇場型とも言える熱狂で最後の最後、客は総立ちで歓声と絶叫の間にある様な声を発していた。とんでもないものを観せて貰った。

流石に我ながら狂った様に観ているという気もするんだけれど、体力を削りながらも感情を回復させる作業に近いと思っている。インプットではないけれど、感情を解す体操の様な位置付け。

ただ自業自得であるものの疲労の色も濃く、とりあえず寒過ぎて身体がバキバキなので暖かくして眠りたい。

 

またー。

ただ長いだけの東京滞在日記。

金曜日、定時退社を決め、帰るタイミングが事務のお姉さんと一緒だったのでオープンしたばかりの商業ビルの某エリアをブラブラしながら感想を述べる。思ったよりパッとしねえな、という意見で一致。意見が一致すること自体稀ではあるので多少新鮮な気分だった。

駅で別れ、新大阪で新幹線に乗り換え、東京を目指す。

サラリーマンで一杯の新幹線は少し蒸し暑く、狭く感じた。疲れが充満していた。

名古屋を過ぎた辺りからは解散してしまった昆虫キッズというバンドのことをふと考え、解散ツアーでステージに引っ張り上げられた時、ギターを弾きなよと促された際に「こんなに好きなバンドのライブの一部に自分がなることは決して許されない」という気持ちが強過ぎて弾けなかったのを思い出して少し気落ちする。

最早誰の記憶にも残っていない場面であるけれど、やっぱあの時弾く事が一番邪魔をしなかったのでは無いかという気持ちになってしまう。でも後悔ではない気がする。終わった事、どうでも良いし、どうしようも無い。

東京に着いてからも移動を重ね、大崎、新宿と空いていた埼京線が池袋で一気に激混みになった事に恐怖を感じた。これが映画「翔んで埼玉」のヒット効果なのかと愕然とする。埼玉がバズっている。GACKT

友人に駅まで迎えに来てくれて、挨拶もそこそこにオススメのお店へ連れていって貰う。

小さめではあるけれど食べ物がどれも美味しいお店で夢中で食べた。そして安かった。

お互いの仕事の話、音楽の話、地元の話などをした気がする。店主の方が僕と同郷の同地域の出身の方で親近感が湧いたものの、郷土愛というものが本当に無さ過ぎて全く話を盛り上げることが出来なかった。嬉しかったんだけどな。

美味しかったからまた行きたい。

友人宅で勝手に借りた寝袋に入ったらそのまま寝てしまい、気付いたら朝になっていた。

あまり眠れないことが最近やたら多かったので物凄くガッツリ寝ていたことに衝撃を受けた。

 

土曜日。

お腹が減ったという理由で友人を起こしたのに結局朝食も摂らずに買い物に付き合って貰う。

アラン・デュカスのチョコレートがネットで見掛けてからずっと気になっていたので日本橋まで買いに行った。

試食させて貰ったガナッシュが美味しくて即購入した。普段食べているチョコレートの12倍の値段だった。界王拳かよ。

お昼ご飯をあーでもないこーでもないと探している中、僕の土地への愛着の無さについて友人がズバリな見解を述べてくれてハッとした。

割と物事を「ただの事実」としてしか認識しない節があるので、地域性とかすっ飛ばして事実の優先順位で考えてしまうんだなと思い知った。

友人が見つけてくれたラーメン屋の券売機で話しかけてくれたおじいさんと結局店を出るまで話していた。おじいさんを含めて3人組と勘違いされるくらい普通に話していたせいで横並びのカウンターに通されてちょっと気まずい。

おじいさんは色々な土地に出張にいっていたらしく、博多や大阪、高知の美味しいお店を教えてくれた。博多のお店以外は上手く聞き取れなかったけれど、博多のお店だけは聞き取れたので食べログで検索してお気に入り登録をした。

博多はたまに行くので本気で活用させて貰おうと思う。

僕も友人も割と親世代や高齢者にウケが良さそうな雰囲気があるので話しかけやすいと思って貰えたのかな、とボンヤリ考えた。

友人が仕事用のシャツを買うというのでついていったら真剣に吟味して試着もしっかりして選んでいたので感心してしまった。

億劫になってついついその場をさっさと終わらせたくなってしまうタイプなので、ちゃんと自身に合うものを選んで買い切るという姿勢を偉いと思った。見習わなければ。

人の買い物についていくと、その人の考え方が見えて楽しいから好きだ。

その後、目黒まで移動して青柳カヲルさんの個展「living iDoll」へ。

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会場は「rusu」という古民家をそのまま利用したギャラリーで、作家のお祖母様が老人ホームに入所されて空いてしまった民家をそのまま貸し出しているとネットに書いてあった。

rusu | レンタルギャラリー・貸し画廊 Rental Gallery jp

生活の気配が残っている部分と展示の為にバツンと無に帰した部分が混在していて不思議な空間だった。展示が無ければその温度差が少し怖いくらい唐突に切り替わっているのではと思った。

とある絵描きと、その絵描きの脳内にのみ存在する女性アイドルYouInme(ゆいみ)ちゃんとの暮らしを具現化するというコンセプトに家の古さや生々しさがピッタリだった。

僕の中で青柳さんが描く女性は淡いものも儚いものも強いものもどこか全て濃くて重たいものを感じていて、それが「いる」という感覚として残るのが好きな所で、それが正確な解釈なのかは解らないけれど、そこが好きだと思っているからこそ展示から伝わる物語が頭にイメージをガンガン湧かせてくれて何度もグルグル見て回った。

序盤から終盤を経て入口へ帰る、を何度か繰り返すうちに、台所に強く惹きつけられる様になった。

とある絵描きとYouInmeちゃんとの濃密な幻想の生活の中で、ぽっかり空いた我に帰る様な現実味がある空間が殺風景な台所である様な気がして、そこに飾られた花の絵が凄く気に入って最後はそればかり眺めていた。


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(※会場は撮影可との事でした。2枚目は友人が撮影していたものを拝借しております)

そもそも家の中で台所って物凄く現実を突き付けてくる場所だと思っていて(食事だったり炊事だったり)、そこからまた濃い空間へ向かうというのが凄く良かった。

他のお客さんと青柳さんが話されているのを聞いて、まだこの花の絵が販売していると知って手に入れたいと思って購入の申し込みをした。

展示は3/23まで開催中とのことで、東京に住んでいればもう一度行けるのになと思いながら受け取れるイメージの容量がパンパンになってしまったので帰った。

偶像化するということと、具現化するということについて延々とエゴや愛や、そもそもそう感じて願ってしまう人格を形成するに至る為に積み重ねてきたそれぞれの受け手の人生のことを考えながらガラガラのモスバーガーで友人と音楽の話をした。

東京駅まで友人に送って貰い、解散。

バタバタしたスケジュールに付き合ってくれて本当にありがとう。

その足で2年前に辞めた会社の同期2人と夕食の待ち合わせ。

仕事の話を沢山したと思う。辞めてからの方が仲良く出来ている気がする。結局、ライバル視して貰っていたんだなと思うし、その席から降りてしまったんだと思う。

居なくなってしまったことをチクリと責められもしたけれど、単純に勝ち負けを気にせずに会える今も嬉しいという内容の話もされて、僕も嬉しかった。

それに恥じない様に程々に頑張っていれば何度でも喜んで会えるんじゃないかと思う。

終電の新幹線に乗って、新大阪まで殆ど寝て過ごした。

忙しなくて短い東京滞在だったけれど、行けて良かったなと思った。

 

またー。

物の怪のジャンパー

グーテン冬至が過ぎて日が少しずつ伸びるその踵を踏まないように慎重にしかし確実にビールを飲みインターネットに溢れる猫という猫を愛で汁がつくほどベトベトになった世界の角っこからほんのり甘い匂いがすると気付く僕の毎日は他愛のない絶望でそれは呼吸の諦めというよりは酸素にさして期待しないという類のもので尚更タチが悪い深海で拗ねた子供の御都合主義はスーパー玉出の怪しい惣菜が胃に溜まって生まれたニュータイプの様にオーバーサイズのパーカーの紐を抜いた穴から這い出ていくら踏み込んでも加速しない過載気味の軽自動車を拝借し高速を辿り夜通し東へ向かういくら待てどもラジオから流れてこない電気グルーヴを仕方なくブックオフで手に入れ聴きながら決め事と芸術の曖昧なホールでサンリオの新キャラと言う物の怪がダンス「誰も一切構わない何も実際」などと端的に引き合いに出し悟ったつもりでステップを踏む度に震える窓の向こう微かに漂う雨の匂いを嗅ぎながら捕まったのが石野卓球じゃないという不謹慎な意外性を徐々に強く徐々に長く吐き出して今日のパワーブリーズは終わり、気を失うようにおやすみ。

PARCOでかっこいいジャンパーと出会ってしまう夢をみる。

 

またー。

直属の上司が社章。

社章なる好みではないが全体の印象が多少引き締まり社会人としてマトモなのでは?と思わせてくれる魔道具的なピンバッジを毎朝スーツに付けるのだけれど、何百回とこなしている工程なのに未だに装着時に留め具を落としてしまい床に這いつくばって探すというイベントを頻繁に経験している。朝から何やってんだという気持ちになる。

不器用さもここまでいくとキャラ認定を貰いたいくらいだけれど、探してる間は遅刻の恐怖と背中合わせなので気が気ではない。遅刻なんて社会的に不安定な相手に預ける背中は持ち合わせていないつもりではあるけれど、向こうが異常に僕を好んでいる様なので仕方がない。ストーカーと称されるまでになったら警察に突き出してやろうと思う。

加えて、社章なるピンバッジは紛失すると始末書を書かされるらしくそれにも毎朝ビクビクしている。ピンバッジの癖に随分とまあ偉い。金属片に始末されるのか僕は。自分より上の役職な気さえするVIP待遇。コナンくんのジャケットについているバッヂの様にトランシーバー機能もないというのに、週刊誌の中吊り広告で目にする使えないけど偉い上司ってもしかして社章のことじゃないかと訝しむ。

遅刻と始末書をチラつかせるのほぼパワハラじゃない?大丈夫?法廷で待ち合わせする?こんな小さな装飾品に度々バタバタさせられ、冷や汗をかかされているのに大人であると認められている自身が主に大丈夫?と思わなくもないけれど、有難いのかどうなんだかこの度中間管理職へ昇進致しまして、ちょっとばかし社章との身分差が縮まったんじゃないかと思うと「いつかコイツを超えてやる」くらい意欲的になっても良いのかなとボンヤリ考えている。

ピンバッジより上の位としてはブローチがあると思うんで、とりあえずブローチを目指そうと思う。ブローチって本部長の次くらいの役職でしょ?先が長そうで引くわ。

 

阪神タイガースのオープン戦を観に甲子園球場へ行った。

最後に訪れたのが昨年のファン感謝デーだったので冬を越えて舞い戻ったという流れで渡り鳥かなと思いながら家を出たけど試合開始を1時間勘違いしていて完全なる遅刻だった。

相手の日本ハムファイターズは斎藤投手が先発とのことで凄く観たかったのに勘違いして遅刻したせいで辿り着いたと同時に交代してしまった。残念極まりない。

3月の上旬ということでまだまだ寒く、ビールを買うも全然減らない魔法の飲み物と化していた。普段からこれくらい減らないでいてくれたらお財布にも優しいのになと思わなくもないけれど、こんなに寒い中で野球観戦するのは中々酷なので暖かくなって欲しいと思う。

ビールが1杯で済むなんて歴史的快挙だった。

試合はオープン戦(=練習試合)だけあってシーズン中よりも試合勘が無くて調整の場という印象が強く、シーズン中に観てきた動きに比べるとフィールディングも打撃も全員がまだこれからという感覚だった。走塁も打球を見切る感覚が本番仕様に達していないのか不味い部分もあったり、バントの精度が非常に悪かったりという感じで、これがシーズン中のあの白熱プレーに変貌を遂げるのかとビックリしてしまうくらいの内容だった。

そりゃプロと言えど常にあんなバチバチなプレー出来ないよな、とプロ野球選手もターミネーターではなく人間なのだなぁと微笑ましくなった。それでも負けてしまうと悔しいから応援に力も入った。

結果は3-3の同点。ホームなのに勝たせてあげられなかった、という気分になる。

それにしても2019年も変わらず阪神ファンは怖い。熱い、と言えるのかも知れない。

野次はまだシーズン中に比べれば少なかった様に思うけれど、それでも怖い。

愛情なのかも知れないけど、そういう愛情表現を受けて育っていないので怖いし、相手の守備に対して「ボール落とせ!」とか普通に無理。(まあこれは全チームそういうファンがいるとは思うけど)

野球をやっていた身だからかも知れないけど、敵チームだろうとエラーなんかして欲しくない。

ただ自分があまり特色的に向いていないんだと思うんだけど、選手が好きだから今年も折り合いつけつつ観戦に沢山行けたら良いなーと思う。

 

誕生日を迎えて歳をとった。

特に書くこともないけど、誕生日前後は藍坊主の「ハローグッバイ」の歌詞についてボンヤリながらずっと考えていた気がする。

【PV】 藍坊主 『ハローグッバイ』 - YouTube

焦燥感の描き方のリアリティーというか生活感というか、凄まじくってたまに聴きたくなって手を出すとその都度滅茶苦茶喰らってしまいフラフラになる。

生きて行くのは面倒だな、という気持ちにすらなるけど、まー頑張っていきましょうかねという気持ち。

【PV】 藍坊主 『ジムノペディック』 - YouTube

ジムノペディック」も歌詞がエゲツなかった。藍坊主は焦燥感や諦めに対して寄り添いながら喪失感から遠ざけるという表現が滅茶苦茶上手い気がする。本当の希望の歌われ方だと思う。

 

またー。

移動都市に住む水木しげる先生タッチのサラリーマン。

ベージュのステンカラーコートに強い憧れがあった。

これまで何度か試着したものの、水木しげる先生が描くタイプのサラリーマンの様な似合い方を高い再現度で成してしまい「なんて需要のない等身大フィギュア…」という気持ちで、おもちゃ博物館ですらお嫁に行けないとペタンコになるまで凹み、少しずつ時間をかけて原型を取り戻した頃にまた同じことを繰り返し、今ではほんのちょっと凹みが戻らないくらいになってしまっていた。

しかしながら年齢が似合い方に追い付きつつあるのでは、という逆転の発想が誕生日を前にムクムクと湧き上がり、遂にはセールで1万円になっていたベージュのステンカラーコートを自身へのプレゼントとして手に入れるに至った。

決して「今の俺のお洒落レベルなら着こなせる様になっているハズだ!!!」などというポジティブな理由ではなく、水木しげる先生風サラリーマンとしての自分もこの歳になれば自然の摂理である、受け入れる他ないのだからいっそ着てしまおうぜという切ない言い訳をタラタラ述べ述べしている結果の購入といった感じである。

前向きでなくとも自己実現と言えば自己実現、どんな形でもゴールに入れば得点は得点という開き直り精神で春や秋に大活躍して貰おうと思う。折角手に入れたのだから。

ちなみにポチったその日、寝落ちしたソファの上で未だ届いてもないコートを着て歩いていたらイキった小学生の集団に囲まれてセイタカアワダチソウでコートをバシバシ叩かれまくって半泣きになるという悪夢をみた。どんな夢だよ。

子供相手に怒鳴る訳にも暴れる訳にもいかず、やめて…と言っていた自分の弱さに起きて泣きたくなったし、お風呂に入る元気も無くなってそのまま寝た。

 

映画「移動都市/モータルエンジン」を公開初日のレイトショーで観た。

タイトルの通り、都市が移動する未来の話なんだけど、予告編でロンドンが動いて他の小さな都市を狩らんとする様に滅茶苦茶惹かれて絶対観たい!!!と意気込んで初日を迎えた。

子供の頃、自転車の行動圏に図書館が点在する地域に住んでいたのに移動図書館という存在が大好きだったし、移動動物園も好きだったし、大人になった今でも献血カーやら健康診断の移動レントゲン車なんかのお世話になる際に「移動する施設」にドキドキしてしまう為、そんな自分が移動する都市を目の当たりにしたらどうなってしまうんだろうというワクワク感もあった。結果、フィクションなのでフィクションとして処理され何事もなく映画を楽しんでしまったのだけれど。

感想としては軸が移動都市そのものと復讐劇と逃亡劇の3筋あり、それを同じくらいの派手さで押し出した結果、移動都市の魅力が物語が進む程に薄まるという事態を招いていたのでは、というものである。

どれも単体ならば面白かったろうに、もしくは補助的に描かれていればこれまた面白かったろうに、世の中にある名脇役という称賛をストーリーそのものに対して必要だと思う日が来るとは、と唸った。

でもヒロインは可愛いし(故に安く値踏みされるシーンでは「しばくぞてめえ」と普通に思った)、彼女と行動を共にする主人公もギーク感が程良くて素敵だった。

期待を上回るほど衝撃は無かったけれど、映像も格好良くて楽しめたとは思う。

 

またー。

白牌を待ち続けるお前らはまるでハチ公。

ドンジャラについて衝撃事実を得たのでこれを読んでくれている人にも是非教えてあげなければ、という気持ちでフリック入力猛威を振るわせんとしているんだけど、そもそもドンジャラってどれくらいの知名度があるゲームなんだろう。

ドラえもんとかONE PIECEのキャラクターが牌に描かれた、どう考えても将来雀荘の空気を形成する大人を育成しようと狙って生み出された玩具なのだけれど。

遊戯王にもカイジにも登場していないということは少なくとも闇のゲームではないので親御さんは一安心だろう。

そのドンジャラに無地の牌、正式名称「白牌」があるんですけど、その白牌って柄のついた牌を無くした時に活躍する予備の牌という訳じゃないって知ってました?

ちゃんとゲーム上で存在意義がある牌なんですよ。無地なのに。FFVでいう「すっぴん」くらい最終的には最強の存在なのかと思いきや全然そこまででも無いらしいんだけど、そこまで突き抜けてなくてもちゃんと役割あるってだけで凄い気がしてしまう。柄がないから。

で、僕は人生そこそこ長く生きてきた、生き抜いてきたという自負があるんだけども知識としても興味の度合いからしても盲点過ぎて知らなかったんですが、それ以上に「ドンジャラの白牌は予備である」と子供の頃の自分に確信させる出来事があったから認識の上書きを必要に感じていなかったいうのが大きいから言い訳としてその理由を書いておきたいというのが本音。教えてあげたいとかじゃなくてそっちが本音。

それは小学校の2年生の頃、住み慣れた土地から引っ越し、転校先の担任の先生がヒステリック過ぎて生きるの辛いなと思っていた頃に仲が良かった安藤くん(仮名)の家に遊びにいった際に起こった出来事だった。

安藤くんと安藤くんのお兄ちゃんとクラスメイトの和田くん(仮名)と僕で遊んでいる中、おもむろに安藤くんが「久々にドンジャラがやりたい」と言い出してドラえもんドンジャラを押入れから引っ張り出してきた。

ルールを知らなかった僕と和田くんに安藤くんと安藤くんのお兄ちゃんは高圧的になることもなく懇切丁寧にルールを教えてくれた。

同じ柄の牌を3枚ずつ集めて役を作ってポイントを稼ぐ、という基本ルールが解った所で実際にやってみようと始め、ゲームが進む中、僕が引いた牌が他と比べ異彩を放っていて手を止めてしまった。

小さな牌に無理に描いたからだろうか、下手くそ過ぎる黒マジック単色のドラえもんがそこにいた。

「変なドラえもんが出てきた」

思わず口にする僕に安藤くんは笑いながら教えてくれた。

ドラえもんのコマひとつどっかいってしまってん。だから予備に描いたんや」

成る程、と完全に納得しながらもこの尋常でない下手さのドラえもんの作者が気になるので僕は悪気もなく「誰がこのドラえもん描いたの?」と続けて尋ねた。

この下手さからすると安藤くんか安藤くんのお兄ちゃんしかあり得ないと予想はしていたが、安藤くんは思いも寄らない回答を寄越した。

「父ちゃんが描いた!下手だよな!!」

大人になっても絵が下手な人はいるという事実があまりに衝撃的だったし、そんな大人になりたくないと思ってしまったことが僕を休み時間に自由帳に絵を描くタイプの子供に変えてしまった。人生単位での影響がデカ過ぎる。

野球チームに所属している癖に学校では漫画クラブに所属するという歪なバランスの子供を誕生させてしまったことを安藤くんのお父さんは今も知らないし、知らない方が幸せだと思う。別に知ってても不幸になんかならない話だけども。

ともかく、「大人が白牌を予備の牌と認識しているという」という事実の説得力が僕に「白牌は予備」という認識を根付かせたんである。

これを思い出したキッカケは覚えていないけれど、こんな出来事を幼少期に経たことを考慮すると勘違いも仕方なしではないだろうか。それとも自分に甘いのだろうか。

これに限らず割と平然とピンポイントで常識が欠落している大人になってしまったので物事に興味を持つというのはとても大切だなぁと己を反面教師として考えてしまう。

大人版ドンジャラこと麻雀を覚える為に通う場所こと大学にも四年間みっちり通って納めたというのに一度もやることなく卒業してしまった。学生生活をドブに捨てた可能性が沸々と湧き上がってくる。いや、麻雀がなくともまーまーちゃんと楽しかったけど、もっとスリリングさを加味できた可能性を感じている。これが後悔というやつだろうか。

あと単純にドンジャラやりたい。ああいう組み合わせて点を競うゲームが吐くほど弱いので賭け事にしない心優しい人たちがいらっしゃいましたらお声掛け下さい。

 

アマゾンプライムビデオで「黒子のバスケ」を見始め、そしてあっという間に見終わってしまった。75話くらいあったのに実質2〜3週間で見てしまった。謎の集中力、もっと発揮すべき場面がいくらでもある気しかしないが、黒子のバスケテニスの王子様的な魅力的な性格のキャラクターを生み出し続ける天才的センスだけで競技の名を借りた架空の武術を展開している作品だと思っていたのだけど、技のトンデモ度もテニプリに比べると地に足がつきすぎて膝上まで土の中に埋まって根を張ってやがて大きな木になるくらいマトモな発想によるものが多く、ちゃんとバスケで勝敗を決めていて滅茶苦茶見応えがあって面白かった。

主人公のチームが魅力的過ぎたし展開もアツ過ぎた。

そもそもバスケットボールはボウリングをカウントしなければ一番嫌いな球技だったんだけど、スラムダンクもI'llも黒子のバスケも凄い面白くて複雑な気持ちになる。

各話の切り方が憎くなる程に先が気になる上手さで、リアルタイムで観ていた人たちは本当に辛い思いを毎週していただろうなと思う。

こんなんちゃんと毎週待ち続けたとか偉過ぎだろ。お前らの前世ハチ公かよ。

何かご褒美あげたいわ。猫でいうチュール的なシャブ感あるご褒美が犬にはないんだろうか。黒子のバスケそのものがそういうポジションなんだろうけど、そういう気持ちになるくらい興奮しながら一気に観てしまったからオススメしたいようなオススメするのが怖い様な、そんな感じである。

 

またー。