性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

EVERYTHING EVERYWHERE ALL AT ONCEを観てマルチバースの門を叩きし者。

アメリカでの予告編がYoutubeで解禁された頃からずっと楽しみにしていたけれど、何の映画なのか正直判らないとビクビクしていた映画「EVERYTHING EVERYWHERE ALL AT ONCE」を観るためにチケットを予約した。

ワクワクしていた一方でゴールデングローブ賞の主演女優賞のノミネートが「コメディ・ミュージカル部門」だった事に「いやだから何者なんだこの映画は」といちいち目を回しながらも当日まで過ごした。

結論から言えば、予想がつかなかった癖に期待だけは高くなっていたハードルをひょいと越える面白さで、尚且つ思考が遅れを取らないように必死に追い縋った感覚もあり色んな意味で刺激的な映画だった。

ジャンル的には何なんだろう。コメディ・ミュージカル部門というよりはSFとアクションがキーになったホームドラマみたいな印象だった。

公式予告編からわかる範囲での概要は、中国から移民としてやってきたギスギスした家族関係に陥ってお金も無い主人公エヴリンが確定申告(アメリカだと何ていうんだろう)に訪れた国税庁で何やかんやあってヒーローとして宇宙を救う!というもので、良くもまぁこの文字列で観るのをずっと待ち遠しがっていたなと自分を褒めたくなるカオスっぷり。

何で国税庁で宇宙救えるねん。税金ってそんな凄いんか。日本の税金はやたらと上がってばっかだけどよ。

以下、ネタバレを盛大に含むので観る予定のある方、ネタバレ激怒派の方は別のサイトへと是非バースジャンプしていただいて、別の選択で別の人生をお過ごし下さい。

 

速攻でネタバレを書き始めるとよろしく無いのかな、と思うので本作の肝になるマルチバース(多元宇宙)についての事前知識の低さを披露する自虐っぷりにてスクロール避けとさせてもらおうと思うのだけれど、まぁ正直スーパーロボット大戦が一番触れてきた歴の長いマルチバース(歴の長いマルチバースって日本語の奇怪さよ)である。多種多様な本来は交わることのない別の宇宙に存在するロボットアニメが関係し合い、また互いの物語を行き来する様はマルチバース的な多世界解釈(厳密には違うのかも知れないけど)であり、またアニメのcmで良く見かける「ヴァイスシュヴァルツ」シリーズも何だかんだカードゲームという生き方の中でマルチバース化している様な気もする。

映画で言うと「スパイダーマン:スパイダーバース」が覚えている経験上では真っ先に挙げられる。宇宙にはパラレル・ワールドが沢山あって、それぞれの世界にいるスパイダーマン(姿形、人種、能力が異なる)が協力して世界の為にド派手に戦う物語はとても楽しめた。そもそも白人男性主体だったヒーロー現場にも多様性をと言う流れもありそうなんだけど、だとしても本当に自由に多様なヒーローが活躍するのはバラエティに富んでいて素敵だと思った。

この辺が僕の最寄りのマルチバースである。

大した特徴も無ければ知識も持ち合わせないレベルで申し訳ないが、こんなの知ったかぶりしても上手くいく訳ないので諦めて欲しい。僕も諦めたので。

そろそろネタバレしながら本編の雑感を述べたいのだけれど、じゃあ上記作品のようなマルチバーズなのか、と言われると「そうだけど、そうとも言えない」のが「EVERYTHING EVERYWHERE ALL AT ONCE(長いので以下、エブエブ)」で描かれるマルチバーズだと思う。

 

まずエブエブのアクション要素の核になっているのは、主人公のエヴリン(確定申告宇宙)がその人生において自分が選択しなかった方を選んだエヴリン(宇宙b)にジャンプすることで、エヴリン(宇宙b)が身につけた能力をコピーして自分の能力として使うというものである。

野球部かサッカー部か迷った自分が野球部を選択したけど、別の宇宙では自分はサッカー部を選択しており、その世界で身につけたサッカーの技術を借りてくるというものである。

そういう選択でどんどん世界が別れていくのを「多世界解釈」と言うんだそうで、確定申告エヴリンは逃げてばかりで何も成し遂げていないし、何も身につけられていない「最弱のエヴリン」故に色々な宇宙の自分から能力をトレースするのに適した「依代エヴリン」なんだそう(酷いけどそんな風に言われてた気がする)で、別ルートの彼女が身に付けたカンフーやら肺活量やらピザの看板回し(?)の能力をトレースすることで、あらゆる宇宙を壊して回っている刺客ジョブ・トゥパキという脅威と対峙していく。

これがエブエブにおける一つ目のマルチバース

 

もう一つは自分達がいる宇宙と似た宇宙が観測出来ない領域に無数に存在している、という「泡宇宙モデル」というマルチバースである。

上記のスパロボを例にすると、ガンダムマジンガーのそれぞれの物語を宇宙を定義すると、似ているけど違う宇宙とイメージ出来る。

文明も違えば科学の発展っぷりも何なら人類の進化も違うし、環境も異なるけれど「似た宇宙」と呼べる環境がそれぞれにある。

大雑把に環境は似ているけれど個人の選択などで変わるレベルではない違いがある宇宙もマルチバース論にはあるらしくて、これもエブエブにバッチリ登場する。例えば岩になっている生物が発生しなかった世界だったり、人類の指がソーセージになっている世界(意味が判らないと思うけど、これに関してはそうとしか言いようがないので映画を早く観て欲しい)がそれにあたるし、ピニャータ(お菓子が入っている紙の人形で木の棒で叩き割ってお菓子を手に入れるゲームに使われるやつ)になっている世界なんかもそれに該当すると思う。

エブリンが何を選んでもピニャータや岩にはなれないし、人類の指がソーセージにする事は出来ない訳なので、その世界はこちらの種類に分類されると僕は判断している。

 

両方のマルチバースへバース・ジャンプしまくって行ったり来たりしながら物語が進むんだけど、舞台としては税金の監査の為に訪れた国税庁の建物の中でほぼ決着がつくという中々にややこしい構図。

この二つのマルチバースを理解するのに結構時間を要してしまって、序盤は必死で物語についていくという観方になってしまった。

そもそも他にも宇宙があるということを発見したのは別の宇宙のエヴリンで、色々な宇宙を壊して回っているジョブ・トゥパキを生み出したのも彼女であり、しかも主人公のエヴリンが生きる宇宙ではそのジョブ・トゥパキが娘というポジションにいるというステージ設定ハードモード。

ただでさえ娘の同性愛を受け入れてあげられない、確定申告にてんやわんやする、自分ばかり必死になっている気がして日々の生活に疲れ全員が煩わしくなっているという状態で頭がパンパンになっているのに、その上で更にマルチバース上の自分の能力を使って無数にある宇宙を救ってくれなんて言われてもパニックになるよなぁ、と確定申告エヴリンの混乱っぷりを観ながら一緒になって疲れてしまった。

確定申告エヴリンが色々な宇宙にバース・ジャンプをすることで得られた能力でバトルが進行する一方、自分が選択しなかった一見眩い世界のエヴリンもまた別のことに思い悩んでいて、その感情に触れることで自分の大切なものを見極め、それを守ろうと必死になる姿にグッとくるものがあった。

カンフーエヴリンはウェイモンドと結婚しなかったことに心残りがあるし、指ソーセージエヴリンは国税庁のディアドラとの恋愛関係に葛藤があるし、シェフエヴリンは腕がいいのに同僚の腕を妬んでしまう・・・苦しんでいるのは確定申告をしている宇宙の自分だけではないし、無限に存在する別の自分の感情に触れることで娘や夫がいかにかけがえの無い存在か、自分がどう向き合うべきか答えを出すところはちょっと泣きそうになった。

コインランドリーの窓を叩き割る世界は特にそう思ったんだけど、「あ、滅茶苦茶ハッピーエンドと思ってたけど、これ別の宇宙だったわ、国税庁に戻ってこれを踏まえた決着見届けないと」となって焦った。

別の宇宙の自分に干渉されていた記憶が本人には残らない(と冒頭に別宇宙のウェイモンドが言っていた)けど、起きたことで周りは変わるのは面白いなと思ったし、それぞれの宇宙の自分にジャンプして得た感情から導き出した答えで自身(確定申告エヴリン)だけでなく、色んな宇宙で自分の為に行動して未来を変えていくのも「宇宙を救う」ってことだよなと感動したし、スケールの大きなホームドラマだなぁと思った。

一つの映画なのにたくさんの作品のエンディングが描かれるという意味でもスケールが大きいし、勿論その後の未来を見られるのは確定申告エヴリンの宇宙だけというのも当たり前なのだけれど凄く良かった。

 

物語そのもの以外にもジョブ・トゥパキの衣装が全部カッコイイ(ブタ連れて登場するの最高だった)のと、カンフーエヴリン宇宙のウェイモンドがナイスミドル過ぎるのと、ウエストポーチで無双するのも犬振り回して闘うのもお婆ちゃんレスラーも面白過ぎたし、何よりバースジャンプするのに突拍子もない行動がエネルギーになってるの意味不明だし、岩エヴリンが岩ジョイ・トゥパキを追って崖から飛び降りたのと、指ソーセージエヴリン宇宙の足の指でピアノ弾く描写なんかも印象的だったし、主人公の名前がエヴリン・ワンって、名は体を表す感が半端じゃなくて藤川球児さんみたいだなとアホみたいなことを考えたりもした。

あとは自分も高校生の頃に友達の誘いに乗って飲食店でアルバイトしてたり、大学で別の学科に進学したり、就職活動で別の会社に新卒入社したり、あの人と仲良くしたりしてたらエヴリンの様に確定申告にてんやわんやする未来があったのかな、というのに端を発して「あの時、別のことを選択していたら自分は今どうなっていたんだろう」的な事を延々と考えていた。

映画のエンドロールを眺めながら、丁度読んでいた小川洋子さんの「約束された移動」という作品の解説で藤野可織さんが「私はふだん、どうしてこんなことになっているのかわからない、と思いながら毎日を生きている。自分の毎日が具体的にどんなふうだったらそんなことを思わずにすむのかといえば、それはわからない。どうしたって、どうしてこんなことになっているのかはきっとわからないままだろう。そこには漠然とした恐れと不安が常駐している」と書かれていたのを思い出した。

本当にそうだと思う。あの時、別のことを〜なんて、そんな今の自分自身に胸を張れたら思ったりしない。

僕がエヴリンに自分を重ねたのはそういうものに困憊している姿だったし、僕が勇気付けられたのはそこから立ち上がって自分のしたい行動を果たせたエヴリンの勇姿なのだなと思った。

僕はノンフィクションなので選択の結果を両方知るなんて出来ないし、だからせめて色んな立場の人に自分を重ねて「僕ならどうするんだろう」とか「どういう所が辛いんだろう」とか想像出来る様に沢山の事を知り続けなきゃいけないなとも考えた。

 

とまぁ、

何だかほとんどがエブエブで描かれたマルチバースを自分の中に定着させる為の忘備録みたいになってしまって肝心の雑感が物足りない気がするけれど、今の自分ではこれが限界なのでもっと色々考えて書き足すなり削るなりしたい。

ミッドサマーの時もそうだったけど(noteに書いているのでまた探してリンクを貼ります)、A24関係の映画は考えて続けて自分で納得するまでが作品という気がして「家に帰るまでが遠足」的な楽しみ方で良いし、これを全映画や本でやれたら人生はもっと豊かになるんだろうなとスケールの大きいことを思いつつ。

 

またー。