性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

春服になれば。

たまにファッション誌を購入して眺めていると、「アウターとしても優秀です」と紹介されているのに結構な頻度で出くわす。またか、と思う。本来の目的としてまず秀でているにも関わらず、アウターとしても優秀なんですって、と主人公の登場に否定的なモブキャラみたいな態度を取ってしまう。もはや流行語を通り越して世間に定着してしまった二刀流というやつですか、と思う。
西加奈子さんが「社長業の傍、トライアスロンになんて挑戦しないで欲しい」という言葉をバラエティ番組で生み出していたのを思い出す。共感百景という番組だったがこれまでに千回くらい共感している。
アウターとしてと優秀な服から感じる半端でない行動力と実現力に、ついそう思ってしまう。
これは感情的には「そんな高次元なものを着こなせる気がしない」という感情の現れと思われる。
ただでさえ振り返れば「ランドセルが歩いてる」から始まり「学ランに着られている」「スーツに着られている」など打ち解けるに時間を要してきた過去がある。
そんなだからアウターとしても優秀な服を買うと「やれやれ、アウターとしても優秀ではあるけども、お前に俺をアウターとして着る資格はねえな」と思われそうでそもそもそういう服を買えない。
いつかアウターとしても優秀な服に「なあ、そろそろアウターとして着てもいいぜ」と言われる日が来るんだろうか。
服に感情があるか、物に心を宿すのは日本人的な発想とよく聞くが、それをある訳ないと否定した所で今度は自分自身が「そんな二役こなせる服の能力を僕が上手く引き出せる訳がない」という気持ちになってしまうだけなので結果は変わらない。
どこまでいっても結論としては「服に着られている」なのだ。
もちろん、これまでの人生において自分の興味と努力が足りなかった事の到達点でしかないので、あ、そうなんだなくらいのもんではあるが、今が人生で一番若いことには違いがないのでもう少し興味というものに裁量を与えて服を選んでいきたいなぁ、などと「アウターとしても優秀です」という服を見かける度に思うんだよね、という話。

またー。