性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

思い切ったオニギリ列伝'24

昼休みに外に出るのが億劫という理由で弁当を持参していたけれど、その弁当を作るのも面倒になった結果、おにぎりを握って持参する様になった、という話を何度かこのブログに書いている気がするが、性懲りも無くまた書きたい。
芸人さんが同じ話題を繰り返す事を「擦る」と言うが、僕もおにぎりの話を擦りに擦りたい。
擦った摩擦で火を起こして焼きおにぎりにしたいので、そのつもりで書き続けたいと思う。
弁当からおにぎりになった場合に食事としてのボリュームが減って少食になるかな、痩せちゃうかな、と心配していたけれど、おかずが無くなった分だけ米で満腹感を確保しようとおにぎりが大きくなり、おかずから米へ置き換わっただけで体重はまったく増減しないでいる。(炭水化物のみなのに増えずに維持できているのは、それはそれで人体のバグという気がしているが不問としたい)
おかずで米を食べる、という関係性についても塩昆布のおにぎりをおかずに塩のみのおにぎりを食べているという狂気の構図が補完しており、言葉にするとほんの少し狂気を帯びている気がする。
世の中の妖刀とか呪物の類も、始まりはこういうささやかな狂気から始まり、チリも積もれば的に効力を増していき禍々しさを手に入れたのだとしたら、これは何かの始まりに過ぎないのではないかと思わなくもない。
それはそうと自分が握るおにぎりが大き過ぎるせいで、コンビニのおにぎりが小さ過ぎる様に見えてしまう。

標準品に比べて増量し、大きさを売りにする商品でさえも小さく見えてしまうので、涙ぐましいマーケティング、コスト管理、商品開発がこちらの責任で簡単に消し飛んでしまっている。美味しく満足してもらえる商品を沢山の人に届けたいという希望を無慈悲に打ち砕いている光景は、極限まで薄めた進撃の巨人のようである。
進撃の巨人のアニメ、完結しましたね。観ましたか?
あの終わり方も、原作の終わり方もどちらも凄く感動しました。
原作の頃はコニーやジャンに、アニメではリヴァイさんやハンジさんの様な上官の人たちに感情移入していた自分の受け取り方の差について結構長い時間考えたりしたものだけれど、その終着点がおにぎりだなんて事になってしまって申し訳ない。
人類は過ちを繰り返してしまうということを我が身をもって体現してしまった。残酷な事だと思う。
でも、おにぎりを握る暇がなかった時にコンビニで買うとサイズの小ささを美味しさが圧倒的スピードでぶっちぎって行くので、コンビニのおにぎりを否定したい意図がない事だけご理解頂ければと思う。
コンビニのおにぎりは美味しい。
これまでの長文は忘れて(どうせ頭に何も残ってないでしょう)、コンビニのおにぎりは美味しいよね、ということだけ共有出来れば幸いである。


それはそうと、セールで1990円になったユニクロのスウェットを買うかどうかずっと考えているのに、たまたま立ち寄ったバレンタインフェアで2000円のチョコレートを即決購入している自分の価値観ってどうなっているんだろう、と悩ましいこの頃である。でも高いチョコレートは美味しいから2000円の価値はある。ただスウェットにも間違いなくちゃんと価値があるのにね、という。
コンビニでは新商品よりもプライベートブランドの安いお菓子を選んで買うのに、ZARAなどに安くて良い香りの香水があってもシャネルのパルファムを買っている。この差は何だ。
優先順位と言えばそれまでなんだけど、振り返ってみると自分でも「うわ、思い切ってるなー」と感じることを度々やっているので、人間というのは自立しても自律出来るとは限らんというか、自分でもコントロールし切れていない部分が周囲からして個性だったり、案外面白さとして扱われていくのかなと思ったりしている。
自分については割と引き気味で反省をつらつらと重ねてしまうけれど、人が同じことをやっていると好感と共感を伴ったりするので自他のどちらに甘いのかみたいな尺度でもこういう話題は参考になるなぁ、とボンヤリ考えている。
一体何の話だと思われるかも知れないが、ただそう感じたことをすぐに忘れてしまう自信がたっぷりあるので、せめてどこかに「こう思ってたらしいよ」と書き残しておきたかっただけである。
巻き込んでこの結論のない話を読ませてしまった人がいたら申し訳ない。
世の中って理不尽で溢れてるから、そういう時もあるよね、と慰めの言葉をかけて謝罪としたい。
ごめーんね。


またー。