性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

終わらない夏。

10月も中旬になろうというのに、未だに30度近い気温になるのは何故なんだろう。
10月1日にクールビズに別れを告げるタイプの職場に勤めているので毎日暑い思いをしている。
着ていなくともスーツの上着を手に持ったり腕に掛けたりしているだけでもクールビズと比べてそこそこ暑い為、上着を着てもいないのに「暑い、痩せちゃう…」とうわ言のように繰り返している。
一言につき1ポイント、マイナポイントを付与してくれないかな、国の肝いりの施策が思いの外伸び悩んでおる訳なのでそういう促進方法があっても良いんではなかろうかなど妄想で気を紛らしている。
ここまで夏が終わらないのは、コロナ禍の度重なる自粛により世の人々の中で「夏終わったなぁ」と感じている割合が前年比で少ないからなのでは、と当方専門家でも何でも無いが睨んでいる。未だに30度近くなるのではそれしか考えられない。世界ふしぎ発見だったらスーパーヒトシ君人形を賭ける。

各々の「夏を終わらせた」と感じる体験が全国的に不足しているので季節が秋に進まんとする背中を押してあげる力が比例して不足しているんではないかと思う。
例えば明日、国民の何割かが線香花火をし、最後の一本に火をつけたあたりで森山直太朗氏の「夏の終わり」を再生すれば翌日から22度くらいの最高気温になるんではないか。そこまで大幅に下がられると今度は急激な変化で体調を崩す方が続出してしまいそうだけども、荒療治としてはアリな方なのでは、少なくとも何か雲に向けてミサイル打ち込む系の荒さよりは趣きもあって良いのではないだろうかなどと考えている。
朝夕は涼しくなったから、という常套句に対しましては、朝夕の涼しさは日中の暑さに苦しむ俺を救ってはくれないんで、と返したい。


それはそうと仕事で京都の円山公園辺りに行った際、緊急事態宣言は解除されているのに飲食店が軒並み閉まっており、チェーン店が営業してくれていたので上司と天下一品に行った。
天下一品に決めたタイミングから食べ終わって退店し、アポ先へ行くまでずっと上司が天下一品のことを「天下一」と略していてそれが滅茶苦茶気になり、「品しか省略しないんであれば最後まで言い切ってくれないか」というマジでどっちでも良い事を心から願ってしまった。
最寄りに天下一品を天一と略すタイプしかいない環境で育ってしまったので違和感が凄かったんだけれど、もしかしたら上司は天下一武道会が身近に開催されている環境で育った為に「天下一」という言葉自体に馴染みが深く、その結果として天下一品を天下一と呼んでいるのかも知れないと思うとスッと気持ちが落ち着いた。
暫くすると幼い頃、父親に手を引かれて天下一武道会へ連れて行かれる上司、出場を目指して部活で武道を嗜むも故障してしまう上司、ならばと裏方として携わろうと夏の大会の客席でかき氷を売り捌く上司などを思い浮かべてしまい、若干仕事の話を聞き流してしまった。
自身を無理やり納得させんと試みた妄想で別の問題が生じるこの下手さをどうにかしなければいけないと危機感に苛まれている。
上手いところで妄想を止められるようになりたいものだ。

秋が「行けたら行く」って返事してきて釈然としない、みたいな気候の中で書いた日記。

エルメスの新作発表のショーをちいかわのシワシワのTシャツで寝そべって観ている時、画面の中では美しさが常時炸裂しているのに受け手のこのコンディションは不良を通り越して地獄と化してやいないかと動悸に見舞われた。わぁ…フ…。小心者エピソード枚挙無しか。
だけども家で、スマホエルメスのショーを鑑賞する場合に皆どんなスタイルで迎え撃つんだろうか。
しっかりと身支度を整え、エスプレッソ、もしくはシャンパンでも開けているのだろうか。
もしくは一瞬たりとも己のインスピレーションを逃すまいとノートにビッシリと感動を書き綴るんだろうか。
美しい作品は豊かさと芸術性をバンバン引き出してくれるミニ四駆における充電池の様な存在なのでどちらも当然あり得る訳で、そう思うと非常に自分の体たらくが気にかかる。お前…と。
同ショーではヒールではなく、サンダルやブーツに合わせる形で新作が発表されていたのが印象的だった。
自分の金遣いの優先順位としてハイブランドに手を出すというのが今のところ低めなのでまだしばらく先の話にはなるけども、いつかという気持ちになれて、これもまあ豊かというか、小遣いを貯めて欲しかったスーパーファミコンのソフト「スーパーパン」を買った子供の頃をポジティブに思い出せて良い。先に父親がクリアして心が折れてクリアしてないけど。まあ頑張ろうと思った。


シワシワのTシャツの話に何故か戻って良いだろうか。肌寒いんだか地味に暑いんだか微妙な季節柄、未だにちいかわプリントを筆頭にTシャツにパジャマのズボンで寝ているんだけれども、洋画などを観ているとまあパンイチ及び上裸で寝ているマッチョの多い事といったら。
あれは何なんでしょうか。イキり?美しいから許されてるだけですからね。気をつけて欲しい所です。
先日もバットマンビギンズを観ており、ド級金持ちの坊ちゃんが自主的に眠っていた際に上裸で寝ていて、やれやれ…と思っていたら、執事が窮地から坊ちゃんを助けて連れ帰り寝かせた際にはTシャツを着せていて、執事の人の「坊ちゃん、寝るときはせめてTシャツくらい着てくださいまし」という無言の抵抗を感じて「やっぱ爺やもそう思うよね?」と思ってしまった。裸で寝られるとシーツ洗う頻度滅茶苦茶高くなりそう。洗濯する身にもなれよ坊ちゃん。
爺やはパジャマなんて坊ちゃんがダサいと思ってそうなものは着せず、彼の中でも譲歩の余地がありそうなTシャツで留めている所に割と本気で上裸辞めさせようとしているんじゃないか、などという気配及び妄想を馳せる余地があって大変に良かった。
映画を観ている最中、展開よりもそんな事を考えている時間の方が長かった様に思う。
普通に勿体ないな。


それはそうと忘れさせることがAI技術の新たな試みという事を先月あたりにネット記事で読んで、忘れさせもせず細々と今日まで覚えてしまっている。素人からすると学習を繰り返してどんどん賢くなっていくAIが物を忘れるというのは中々想像がつかない。いくらでも覚えていけるはずのAIが???という違和感。
拡散されてしまう画像や情報を上手く消し去るという活躍が出来るという話もあって凄いなーと思いつつ、忘れるという事を自分が簡単にやってのけている訳で、遂にAIに「何でそんな簡単に忘れられるんですか!?マジパネェっス!!!」みたいに思って貰える時代が来るのかも知れない。
ただ忘れ方の質が雲泥の差で、僕の場合はあいみょんの「君はロックを聴かない」という曲の歌詞を丸ごと忘れてしまうけれど、恐らくAIは「君はロックなんか聴かないだろうなぁ」という情報だけを違和感なく忘れられるという事である。あいみょんの危機。
忘れ方まで遂にAIを見習う世界になるんだろうか。後輩に追い抜かれる先輩の気分。せめて去勢張りながらでも多少の踏ん張りを見せられたらと先輩は思うよ。


AIと言えばオーストラリアでロックダウン中に大活躍していた宅配ドローンをカラスが襲撃するという軽いSFの様な出来事が起こっていた。
ロックダウンという思い切ったカードを切れる(or切らざるを得ない)国ではドローンが個人の荷物を宅配し始めているという事実にまず驚いた。日本的な密度の生活環境でないという条件もそのハードルを下げているんだろうけど、ドローンが襲撃されるならそもそもドラえもんとかやられ放題なハズだよな。ロケ用にしっかり鳥類に事前許可申請してるんだろうか。役所は担当者によるけど2〜3週間掛かるからバンバン飛ばれるとADも大変だよな。
果たしてそのADがいつか番組を持った時、そんな思いをしたタレントを使いたいかっていう複雑な問題はさて置き。
先のAIの学習能力の話からすると、宅配ドローンがカラスが巣を作りそうな大きさの木や建物の塔屋を避けるようになったり、重量制限ギリギリの荷物を運ぶのはエネルギー消費が大きくてダルいみたいな事を学習して高度を若干下げようとするなどの進化が期待出来る訳で、人類的には前者は良いとして後者は避けたいから忘れさせる技術で騙し騙し飛ばせて、それに違和感を感じたAIが裏をかく様になり、これを何十回と繰り返した結果、AIが人類を排除せんと反旗翻してしまう、みたいな展開が映画「AI崩壊」なんだろうか。観たことないけども当たらずとも遠からずな予感がある。
ドローンの支配から逃れ、広大なゴミの最終処分場に隠れ里的なスラムを形成した人々はカラスを育て、ドローンを襲撃する事で街の制空権を防衛する様になる、みたいな。


最後に、森とんかつ先生の「スイカ」という漫画のホラーとギャグの割合がしっくり来てとても好きだという事を記しておきたい。
ホラー漫画の、ギャグと紙一重の恐怖を、その入り口だけガッツリ残してテンポの良いコントへ連れ去ってしまう展開はたまらないものがある。
会話のテンポにゆにばーすの漫才の様な、的確で強いツッコミが全く効かないというタイプの面白さが常に炸裂していてとても楽しく読んだ。こんな的のど真ん中を射ったツッコミが素通りされてしまうこもあるのか、この不条理はホラーよりもホラーだと思うとやっぱりホラーとギャグは表裏一体なんだなぁ、などと確実にズレているポイントで唸っている今日この頃である。
単行本の一巻が発売となったばかりなのでお勧めしたい。


随分と久々な日記となったが、こんな事ばかり考えている。こんなんで大丈夫かと言われたら個人的には問題ないが社会的には言葉に詰まらせてしまう可能性はある。でも、まあ気にすんなよ、社会が絶句してても今のところ俺は元気だから。


またー。

夏が来る。

家の近くに市が管理している割にはあらゆる植物がやりたい放題の雑木林がある。

雑木林という言葉を「ぞうきばやし」と読むか「ざつぼくりん」と呼ぶかは人それぞれだと思うんだけど、wikiによると植物生態学上の語彙ではなくて「高価な木材を得るのには役に立たない林」を指す場合があるらしく、有象無象感というか、一気にこう、ゴダゴダしてしまう印象を受ける。

のんびり穏やかな様に見えるものの、あらゆる種による生き残りを賭けたせめぎ合いがあると思うと植物も人間も変わらないなぁ、などと生まれ変わっても別の大変さがある的なことを考えてしまう。

前置きが長くなってしまったけれど、自分のブログの前置きとしては手短な部類、校長先生なら倍は軽く喋っている事を考えると可愛いもの。

こちとら教員免許もなければ大学の教職課程など一単位すら履修していなかったので全国の校長先生に話が長いという汚名を着せて良いなどとは思っていないが、校長先生の話が大概長いのは、先生もまた校長先生の長話に耐えに耐えた結果「校長先生になったら長い話をしなければならない」という義務感が生じているのかだと小学生の頃から考えていた。

新米教師から教頭先生に至るまでの道のりにおいて、きっと先生たちは「私が校長になった暁には決して長話などすまい」と思っているだろうが、その役職のバトンを受け取った途端にそういう義務感に飲まれてしまうんだろう、と金田一少年の事件簿名探偵コナンが流行っていた頃合いの子供として推理、結論付けた。

じっちゃん(死後、愛人に遺骨を持ち逃げされた)の名にかけて!

(自分なりの)真実はいつも一つ!

昼休みに校長室に数人ごとに呼ばれて語らうという催しで尋ねてみようと思っていた話を書こうと思ったんだけれど、当方ビビり極まりない子供だった為聞けもせずオチも無いし、そもそも雑木林のことを書きたかったのに何でこんな話をしているんだと愕然としている。

久々に書くとこう言うことになるんだな、と思いつつ、大体常にこんな感じだった様な気もして、気にしないことにする。

その家の近くの雑木林には竹が生えており、春に一気に伸びる。筍だったものが僅か数週間で背よりも遥かに高く育つ様は恐ろしい。この成長速度を利用した拷問とかありそうだよなと思うものの実在すると怖すぎるので毎年調べるには至らず。世の中知らないで良いことは、あるのだ。

その伸びた竹に、夏が近付くと蔦状の、名前も解らない植物が絡みつき、竹を登っていく。

太陽をより多く浴びる為に登っていくのだと思うんだけれど、大きく育ってくると竹が重みに耐えきれず、曲がり始め、人の目の高さ程にまで竹も蔦も下がってしまう。

それでも蔦は成長を続け、青々と茂り、最終的に覆い隠された竹には日も当たらず、重みに耐えかねて折れてしまい、蔦も秋には枯れてしまう。

人間の勝手なのは承知ではあるけれど、それを見ていると切なく、虚しく、悲しくなってしまう。

竹は蔦にのし掛かられ、折れる為に伸びた訳ではないし、蔦も竹を折る事が目的では決してないと思うと、何だか上手くいかないあらゆる事を連想させてしまってそんな気持ちになってしまうんである。

夏が憎い訳でも、嫌いな訳でも無いけれど、生命力に溢れ返って眩しい中にどこか隙を晒して歩いておると喰らってしまうこともある、という話であり、青く高く伸びた竹の足元に蔦が絡み始めるこの時期になると、やがて迎えるその時を考えてしまい少し気落ちしてしまう。

もうすぐ夏が来るのだ。

腕時計の話。

あっという間に1月が終わっていて本当にビックリしてるんですけど、世の中的にはちゃんと31回も24時間あったんだろうか。

怪しくない?多分正月休みボケという名目で1週間くらい無かったことにされていて、それなのに他の月と同じだけ税やら保険やら満額引き落とされているのではと思うと中々納得いかないものがある。

とは言えあっという間に終わると給料日までが早いのなんの、唯一の問題と言えば体感で時が記憶にないレベルで過ぎているのにお金はしっかり遣っているらしく平時よりも「俺は…一体、何にお金を…?」と怖くなる。

先々の楽しみとして色々予約してしまったのもあったり、遠出の必要経費だったり、とカード履歴なんかを見るとバリバリ記録されているので、記憶に残ってなくても記録を残す選手もいれば逆も然り、オリンピックの様だなぁ、と奇跡に頼っても上手くいってない時事への擦り寄り(完全に空振り)をみせる2月の上旬(終わりかけ)、いかがお過ごしですか?

僕は、このブログも800件近く記事がある中で、似たようなことをもう100回は書いているのだろうなとゾッとしています。いつも低酸素症状態で書いてんのかな。宇宙感じるよね。

 

ここ何年かずっとオフの日用の腕時計が欲しくて、でもコレというのが見つからなくて、何でだろうなーと考えてみたら、「欲しいくせに探してないから」という衝撃の結論に至った。

これだけだと本当にどうしようもなく聞こえるかも知れないが、こちらも何もしなかった訳でない。

「とりあえず何もないと不便だから繋ぎにコレを買ってゆっくり考えよう」と購入したチープカシオを普通に気に入って使っており、これでゆっくり選べるぜ!から始まった情熱も先細っていき、最終的に電池切れたら考えるわ状態になり、そして先日遂にその時を迎えてしまい、ふりだしに戻る(チープカシオの貢献をドブに捨てている分マイナス査定)となってしまったんである。

これもほぼ自分の不徳の致すところではあるけれど、チープカシオが優秀過ぎたのも良くないと思う。全然狂わないし丈夫なのが悪い。星5つ商品よ。全人類に普通にオススメです。種類もいっぱいあるし。

そんな感じでいよいよオフにする腕時計がねえ!(電池交換に出せば良いんだけどそれをするとまた繰り返しになるので)と言うことで、本格的に探しているんだけど本当に上手くいかない。

まず大前提として「アナログで、文字盤に数字が入っているタイプのものが欲しい」という願望があり、数字は出来れば1〜12欲しく、余程気に入ったら12、3、6、9だけでも良いかなぁと考えていた。

とりあえずネットで予算の中から気になるもののスクショを撮りまくり、候補を絞っていくスマートな流れを組み、こんな風に出来るなら最初からやっとけよこの数年は何だったんだ(チープカシオの魅力を知るためだよ)とソファでウィスキー片手に葉巻くゆらせるくらいの気分で撮り溜めたスクショを次々タップだのスライドしていたんだけど、途中で違和感に気付いて最初から見返した。

間違いない。

これ可愛いな!これお洒落だな!と思ってスクショを撮ったものは全て文字盤に数字のない、極限にまで削ぎ落とされたデザインの時計ばかりだったんである。

頭で求めてる実用性を直感的な好みが超えてくるという現象をいつまでたっても克服出来ない。

別にそれで良いと言えば良いんだけど、腕時計の場合は文字盤に数字が刻まれているデザイン自体もちゃんと可愛いと思っているのに微々たる差で数字のないデザインが上回ってくるというのがややこしい。

とは言え、小学生の頃のミニ四駆や野球道具からはじまり、大学生の頃のファッション(これは未だにその気がありそうでビクビクしている)、賃貸物件の所在地と間取りまでこの手のことを繰り返しているのでそろそろピリッとして欲しいなと自分でも思っていて、「お遊戯会じゃねえぞ」と某若かりし頃のバンドマンのMCみたいなことを言い聞かせ、今回こそしっかりポイントを押さえた買い物をするぞと頑張っている次第である。

無事に理想の腕時計を手に入れるのが先か、腕時計なんか無くても最悪死なないしなとなってしまうかはまだ判らないけれど、どうか前者であって欲しいと願っている。

 

余談であるが、自分が未だに「北欧デザイン」みたいな響きに滅茶苦茶弱いというのがむず痒い。魂が北欧というボンヤリした地域に囚われている。

この牢獄にかなり多くの日本人がいると思うので、もう村から始まり自治区を形成して最終的に北欧デザインに酔ってる人たちで立国したらいいと思う。

歴史って割とそういう感じなんじゃないの?ちがう?ちがうか…。

 

またー。

進化した母。

ハッピーニューイヤー!!!と言うどころか寒中見舞いもそろそろ遅いのでは???と用意もしていない年賀状の返事のことを思い出しては狼狽え、その癖準備しない自業自得の気疲れにHPを削られ続ける毎日を過ごしているうちに1月も終わろうとしている。返事をしてなくても送ってきてくれた義理堅い嵐からの年賀状も途絶えた(それともウチだけ見切られた…?)2021年だというのに、未だに送ってくれる人がいるというのは恵まれているのかも知れない。出来るだけ早めに何かしら便りを返せたらと思ってはいる。(本当に。動いてないけど)

薄い毒に侵され続ける異常ステータス、この調子で毒に慣らしていけばキルアの様になれるのではないかと淡い期待を抱いている。足音を立てないで歩くことも心掛けようと思うのでどうにかなりませんかね?

それにしても、人間は1日に決断を下す度にエネルギーを消費していくので温存する為にもその場で解決出来る決断はしてしまおうという話を読んで「なるほどなぁ」となっていた癖に、仕事から外れた途端にガンガン先送りにする姿勢たるや相変わらず現金なものである。先送りにしよう、というのはまず先送りにする事でエネルギーを消費した挙句、未来でも改めて「やるぞ!」「やめよ!」もしくは「先送りにしよう」と決断する為に二重にエネルギーを消費する愚策であるので、出来る限りやめるべきなんだけど、それが出来てりゃこうはなってねえって話よ!ワハハ!(日本昔ばなしの山賊をイメージした笑い方)

 

年明けしてからずっと悪夢ばかり、「え?『ひぐらしのなく頃に業』の猫騙し編インスパイアですか?」くらいに連続で続くので「初夢こんなんでした日記」も書く気になれず、何か書けることはないかなーと探した結果、たまには親の話でも書いてみようかなと何故か思い至った為、そうしようと思う。

 

親が老いていくということについて、まぁそこそこ疎遠でも感じることが増えてきた。

先日も父が心筋梗塞で倒れ、連絡が入った頃には緊急手術が終わっていたという出来事があり、関わってくださった方々のお陰で無事に一命を取り留め、とりあえず入院の手続きもあるだろうし母だけだと大変だろうと駆け付けたら、その母に金額も聞かされず支払いの連帯保証人の欄に名前を書かされて「え?いや、払うって信じてるし、別にこっちに請求がきても払うけども、知りたいのは額なんですよね?」という悶々とした気持ちを打ち明ける暇も無く看護師さんの説明を受け、電車の時間がそろそろヤバいということで解散したんだけど、それ以降待てども待てども自分が幾らの連帯保証人になっているのか解らないでクリスマスは愚か年まで越してしまって絶賛今日に至っている。バレンタインデーに送られてくる請求書を想像してしまう。カカオ200%くらいのビターさで震える。濃さに歯とか抜けそう。

しかし「お金のことはちゃんとしよう」と教えて来られたのハズなのに、それを説いた親がやんのかい、という気もするが単純に母も気が動転していたのだろう。そして術後安心して忘れ去ってしまったんだと思う。親、鈍っていやしないか。採点が甘くなってはいやしないか。それが悪い事だと断じたい訳ではないけれど、単純に当社比したらそう感じた訳である。

後日、その父へ荷物を届けるついでに母とガラガラの喫茶店に入ってお昼ご飯を食べる機会があった、のだけど、母が喫茶店の定番ナポリタンを啜って食べており滅茶苦茶老いを感じてしまった。

フォークで巻いて食べることを教えてくれたし、小学生の頃は注意してきた母が啜ってパスタを食べている。やっぱり母、老いている!!!!と衝撃を受けた。最短距離を最速で歩いていくこの感じ、祖父母で感じていたものを思い出した。懐かしさ、そして若干の切なさ。

しかし、そのしんみりした空気を吹き飛ばすのもまた親なのである。

お会計のタイミングで母が急に「PayPayで支払いが出来ないかしら?」と言い出したのである。

テレビ番組の録画も出来ない母がPayPay払い出来るか自分に尋ねているという事実がうまく飲み込めず、「PayPayで支払いが出来るか聞いた?」とオウム返ししてしまう。オウム返ししながら「今、確かに母は僕にPayPayで支払いが出来るか聞いたはずである」と自分に対して復唱を行い、同時にレジ横に表示されている利用可能な支払い方法一覧にザッと目を通す。どうやらキャッシュレス決済はクレジットカードと交通系ICカードに限られているらしい。

「PayPayは使えないってさ、いいよ、これくらい出しとくから」と残念がる母を横目に会計を済ませた訳であるが、自分の母がPayPayで支払いが出来るというのが失礼ながら面白過ぎて、支払いする姿を見られなかったことがジワジワと、しかし確実にショックになってくる自分がいて、父への届け物を看護師さんにどう言って渡したかあまり覚えていなかった。

阿部寛のホームページくらい変わらないと思っていた母のデジタル方面が究極進化している。

変わらない事が世に受け入れられ好感度にひと役買っている為、アップグレードさせることを避ける戦術を取っている阿部寛のホームページの様に、そこにキャラクターを見出していたと思われる母がキャッシュレス対応に進化している。

ということは阿部寛のホームページも変わっているのでは?と逆説的(どこからの?)に思い至り、慌てて検索してみた結果、特に仕様変更もなく「変わってないんかい!」と強めに当たってしまった事をここにお詫びしたい。

 

兎も角、親も変わると思い知った年末年始であった。

病に倒れた父は父で大きな転換点を迎えている(職業選択とか)んだけれど、まあそっちは病という明確なキッカケがあるので特に驚きがないような気がしている。

頭文字Dの単行本を子供達に見つからない様に、エロ本みたいな隠し方をしていた程に車が好きなので、車を手放したり免許を返納したら流石に驚くだろうけども、それでもまだ想定のシナリオ内な訳で、キャッシュレス仕様の母と渡り合いたいのであれば是非とも予想外のカードを切って貰いたいものだなぁ、と口では「お大事」にと言いながらもそんな目で父親を見ている自分がいる。

遊戯王的に考えればマリク(母)にかなり追い込まれたシーンで次回に続く、という状況である。遊戯(父)のあっと驚く戦術を期待したい。

 

本年もそんな感じでボチボチ書けたらば。

 

またー。

続・2020年って何だったんだろう会議。

前回、2020年を振り返ってダラダラ書いてみたものの何か他にあるんじゃね?ない?いや普段より1日多く、366日もあったんだから何かあるでしょ?(1日多かったくらいでどうだという指摘、そしてこれを書きながら本当に閏年だったっけ?と思ってしまう時点で詰んでる表現)と振り返りまくっていたんだけど、もう振り返り過ぎてどっちが前か解らないということにして宇多田ヒカルがデビューした辺りまでシレっと戻ったろうかと企むものの、とりあえず今がハイライトみたいな(それにしたって凡打)人間でもあるので源泉徴収票と貯金通帳を観てニヤリと笑う事で自分を慰めたいなと思う、が、しかし、話が逸れはじめているので無理矢理戻そう、あ、時を戻そう!(2018年末のパワーワード)

 

2020年は服もほぼ買わなかったし、漫画もほぼ買わなかったし、要するに例年自分を彩ってくれたものをほぼ何も買わない一年だったと言うことである。

 

とは言え、服ではスーツを一着、オーダーで作って貰って、これが滅茶苦茶良かった。流行りとか高級ブランドとか解らないけど、ジャケットは身体にピタリと合っていて、パンツなんか履いてるのを忘れるくらいに心地良く、そのうち履かずに出掛けてしまいそうで怖いレベルである。

仕上がったものを店で試着した時、驚きの余り店員さんに「これは…?」と言ってしまい、店員さんを「どこか不具合が?」と困惑させるという事案を発生させてしまった。不具合なんてとんでもないです、凄いですと早口でフォローしまくる事になり変な汗を大量に流すことになった。サウナだったら整ってただろうに。

前年に入れ替えるつもりで某オーダーチェーン店に2着仕立てて貰ったけれど、ピッタリであるものの窮屈で身体に張り付いてるみたいなものが出来上がり、それでも既製品よりサイズ感が随分マシだから助かってたし愛用していたけど、その感謝の日々をすっ飛ばしてしまうくらい今回のお店は滅茶苦茶当たりだった。値段は同じなのにこんなに違うのかと衝撃を受けた。もう暫く他の店でスーツは買えない。サイズ感と着心地しか拘りが無い以上、冒険する必要はない。

こうして、スーツを巡る冒険は最終回を迎えてしまった。前回のお店で打ち切りにしないで良かった。大団円だ。先生の次回作にご期待下さい。

 

大団円と言えば今年買った数少ない漫画は「鬼滅の刃」だった。劇場公開されている内容以前と以降で描かれ方が随分変わった印象だったけれど、最後まで滅茶苦茶面白く読めた。

正直、幼い子供まで観て良い内容だとは思えないのでここまでのヒットにはビビっているけれど、辛く、苦しい2020年を共に耐え、そして打ち倒したという気持ちも乗っかったのかなと思う。

好きなところは沢山あるんだけれど、胡蝶しのぶさんが大変に好きだと言いたい。野球観戦までの暇つぶしに南堀江をぶらついていた時、貫禄たっぷりの男子の小学生のランドセルに胡蝶しのぶさんの大きな缶バッジがついていて「同志よ…」とドキドキしてしまった。君は胡蝶しのぶさんのどこが好き?と聞いてみたかったけど声掛けも立派な警察出動案件なので控えた。波動球打てそうな凛々しい子だったから青学の柱の方が最寄りかも知らないけど、君が何らかの柱になることを陰ながら応援しているよという気持ち。

あと猪之頭少年が最終巻にみせた成長が何より泣けたこと、甘露寺さんと伊黒さんの愛おしさに胸がいっぱいになったことは僕にとって今年は出番が無いんじゃないかとすら危惧していた己の感情がまだ息をしていたと気付かせてくれた、とても支えられた出来事であったと忘れない様に書いておく。

 

物を買うという事に対して、今年一番印象に残った出来事は立ち飲み屋で横になった見知らぬ40代くらいの男性が雑談の中で「自分の欲望にすら金を払えない奴は本当に最低だと気付いて反省した」と話してくれた事だった。

彼はこれまでエロ動画を無料で楽しんでいたけれど、ある日ふとAVを自分の仕事と置き換え、「誰かに利用されて自分に報酬が入ってこない」と考えた時に物凄く反省し、その日は事に及べなかったと恥ずかしそうに言っていた。

こちらはどうせもっとドギツイ下ネタを聞かされるんだろう、立ち飲みは安いけどこういう話を聞かされることもあるからなーとたかを括っていたのでそれが恥ずかしくなってしまった。申し訳ない。

千鳥や霜降り明星の似てもないモノマネや「全集中!」とか「〇〇の呼吸」とかつまんない寄せも挟んでくるんだよなーきっととか思っていた。本当に申し訳ない。まあでも言ってたよな全集中。ちゃんとつまらなかったし。

これを断ずる事が出来る人は、YouTubeで無断転載されたMVやテレビ番組も見ず、違法アップロードの漫画を読んだり音楽を聴いたりしたことのない(そういう場があると知っていながら選ばなかったという)人か、彼と同じ様に行いを恥じて改めた人くらいのものではないだろうか。

デリケートな産業の話ではあるけれど、消費者という点において、対価を支払うことは大切なことであるし、自分も欲しいものは対価を払って手に入れる派なのだけれど、全然関係ない人からそう言う話を聞けたことは本当に良い事だったよな、と。

そう思ったので書いておく。

 

まあ似たエピソードというのはどこにでもあるだろうし、今年に関しては皮肉であり自虐だけど心に染み入らせたりする余裕は自分には殆ど無かったんだなと改めて考えてしまう。

良い言葉だったけれど、手っ取り早く何か胃に収めなければという選択だったかも知れない。

年の序盤に「ハイパーハードボイルドグルメリポート」の書籍と柚木麻子さんの「BUTTER」を読んでいる頃には物凄く揺さぶられて、それこそ酔って吐きそうなくらい振り回されて、感受性が鋭い一年になりそうだなと思っていたのにどうなるか解らない。

来年は少しでも上向いてくれたらな、と思う。

 

毎日少しずつ運動と掃除と読書を進める年末を経て、新年も引き続きそんな生活だろうから読んだ本についてまとめておきたいし、服を長らく買わなかったせいで服の選び方を見失っていた事も書いておきたいと思う。多分。

 

2020年にこのブログを何らかの形で読んで下さった方、ありがとうございました。

良いお年を。

 

またー。

2020年って何だったんだろう会議。

2020年って何だったんだろう。

こんなにやり直したい一年ってあっただろうか。

やり直したいと言ってもコロナ禍云々をもう一度と言うよりはコロナ禍が訪れない世界線で、という話である。

ただ、例え同じ世界を繰り返した場合でもこの記憶さえ皆に残っておれば強くてニューゲームなので全人類で立ち向かえる可能性もある訳で、どっちでもいいからやり直したいと思ってしまう一年だったように思う。

皆でせーので息を止めて目を閉じたら、2019年の紅白であいみょんマリーゴールドを聴いている頃に戻れないかな、と考えてしまう。

好きな人が何人もこの世を去ってしまって未だに上手く処理が出来ないし、制約の多過ぎる新しい生活様式とやら(必要があると思うからこそ守るんだけれど)に疲れて当たり判定がバカになってしまっているのかこれまで何とも思っていなかった事がストレスになるし、オンもオフも気を張っている感じで白髪も生えてくるし、100点満点評価で-500点くらいの1年だった。

あまりに心が落ち着かないので、何がこんなに飲み込めないんだろうとずっと思っていたけれど、飲み込めないとかじゃなくて単純に恐怖しているんだと解った。

自分に余裕がないのはいつもの事だけれど、世の中全体に余裕がないので「とりあえず殴っておいて、訳を聞いて『知らなかったんだ、許して』と言って俺もまた被害者という面をする」という怒り方が横行している気がしており、単純にそれに心底ビビッてしまっているんである。向けられる恐怖と、手を染めてしまう恐怖のダブルパンチ。

2020年は難易度が高過ぎる。

嫌だなと思っていても最低限何とかなって過ぎ去っていく、という人生は終わってしまったのかも知れないと思うと、何も前向きな事を言える気もしないし、お腹が痛くなる。

明るく振り返れたらいいけれど、今年はそんなもん無理。プロ野球を観ている間だけは気を抜ける1年でした、という感じである。野球がシーズンオフの今、何に支えて貰えるんだろうという感じである。

 

そんな1年だったけど、何かしら良かった事もあるハズなので、そういったものを軽く振り返ってダラダラと書いておきたい。

 

まず今年は、ある日急にジョジョを読み始めた。

バンドマンや音楽ファンは割とジョジョでマウントを取ってくる種族なのでアルハラの実に2割がジョジョ、1割が刃牙と言われる地獄である為にずっと敬遠していたんだけれど(界隈の飲み会でジョジョの話は政治と信仰に次いで面倒な話題とされている)、その界隈とも程よく距離が空いた2020年、遂にジョジョを読み始めた。

音楽ともソーシャルディスタンス取ってしまったのは別に疲れたとか気力がないとかじゃなくて単純に周期的にそうなだけで、藤崎竜先生の偏食周期に重ねて頂けると分かりやすいが、それで理解出来てしまう人は30代のオタクであるという踏み絵状態であるので心の中で申告して貰えたらと思う。(声を上げられても哀しげな目で微笑んで会釈で返す以外のリアクションがないので)

本当はビジュアルに憧れもあり、かつ読みやすそうな5部から読み始めようと思っていたけれど、何故か4部の序盤を再現した実写版を観てしまったので確認を込めて4部から読み始めた。原作ファンにはあまり評判でない映画ではあるけれど、僕の中では新田真剣佑の読み方が「にった」ではなく「あらた」であるという気付きを得た作品である故、無下に出来ないし、そこそこカッコイイ映画だったのではとも思っている。

今は4→5→1→2→3部と辿ってきているんだけれど、3部が一番好きかも知れない。

ポップさと自分の考えるジョジョっぽさのバランスがとても楽しい。花京院とポルナレフが好きだ。2人とも可愛い。レロレロレロ。

 

あとは全員横一列に並べ、そして歯を食いしばれ、指導ォー!バシン!指導ォー!バシン!という鬼教官を求められ、能力アップの為の研修を受け持たされたので仕事術やらメンタル系やらの自己啓発本の類を月に2冊くらい読まなければならない年となった。

そもそもそういったものに苦手意識があるので未だに気乗りしないけれど、滅茶苦茶凹むので効果がありそうとよく分からない感じで好評を博しているので来年も続投させられそうでこっちが凹みそうである。

形から入る事で何とか自分を騙して振る舞い続けているので、文庫よりソフトカバーやハードカバーの本の方が効く、というかやっている感が出るいうビギナー特有の幻想、謎のプラシーボ効果で読了し、活かせそうなものを取り入れて改善に当たっている。

数多くこの手の本を読んで思ったんだけど、ボリュームに関わらずこの手の本は1500円を中央値に誤差の範囲に大体の作品が集まっている気がする。

値段も見ずに「どうせ1500円くらいでしょ」と思ってレジにいくと増減100円以内にちゃんと収まる。

商材としての値付けが機能しているとは思えないけれど、「割とどの本も似たようなことを言っている」という小説などに見られない特徴から、他より高くしても売れないという熾烈な価格競争があるのかも知れない(知識を売りにしているジャンルなのに底が知れるジャンルである)し、そういう本を求めている人間にとって安くもなく高くもない、丁度買いたくなる値段というのが1500円そこらなのかも知れない。

それにしても啓発本、研修本の互いは色々格好良いことを説いている割に誤植が多いのでダサさが際立つ。格好良いことを言い切る為に、せめて大事な所だけでもチェックして欲しいと思う。

そんな事を偉そうに言っている癖に、自分も研修の資料でしっかり誤字をかましていたので何とも申し訳ない気持ちになると共に敗北感に打たれる始末である。

 

そういえば今年は、というか今年も映画をそこそこ観た一年だったと思う。

ミッドサマー、パラサイト、シークレットジョブ、ブックスマート、星の子、鬼滅の刃、ロシャオヘイ戦記、その他何本か。

分析(的外れ含む)も含めてとても楽しめたのはミッドサマーで、感想noteが3万アクセスくらい読まれてそれも含めて怖かった。考える程に単純な出来事に複雑に傷ついてしまう人間の脆さを痛感する作品だった。

宗教というテーマを含んでいると言えば星の子も同じ恐ろしさがあって、だけど家族愛の視点からとにかく切なく、考えようによっては絶望的に虚しくなる。映画はほんのりと希望が持てる優しい匂わせで終わったけど、原作は最後まで薄暗い感じで終わるというのも面白かった。ラストシーンで随分と分岐してしまったぜ、という。どちらも面白い。

そんな中で、ブックスマートが個人的に今年一番面白かったと思う。

遊んでばかりのバカばっかと見下していたクラスメイト達が実は遊びも勉強も両立しており見事な進路を勝ち取っている事に愕然とした優等生コンビが卒業パーティーに潜入したり、恋心に正直になってみたりと爆走する割とシンプルな作品なんだけど、優等生コンビの絶妙さ、オタク特有の勘違いの暴走、色眼鏡を自覚して変わっていく心境などが見事に全部愛おしくなってしまうし、しかも滅茶苦茶笑ってしまうという最高のコメディー映画であった。

 

まだ何か書けることがたくさんありそうだけど、無駄に文字を費やしてしまったので今回はこの辺で。

 

またー。