性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

夏が来る。

家の近くに市が管理している割にはあらゆる植物がやりたい放題の雑木林がある。

雑木林という言葉を「ぞうきばやし」と読むか「ざつぼくりん」と呼ぶかは人それぞれだと思うんだけど、wikiによると植物生態学上の語彙ではなくて「高価な木材を得るのには役に立たない林」を指す場合があるらしく、有象無象感というか、一気にこう、ゴダゴダしてしまう印象を受ける。

のんびり穏やかな様に見えるものの、あらゆる種による生き残りを賭けたせめぎ合いがあると思うと植物も人間も変わらないなぁ、などと生まれ変わっても別の大変さがある的なことを考えてしまう。

前置きが長くなってしまったけれど、自分のブログの前置きとしては手短な部類、校長先生なら倍は軽く喋っている事を考えると可愛いもの。

こちとら教員免許もなければ大学の教職課程など一単位すら履修していなかったので全国の校長先生に話が長いという汚名を着せて良いなどとは思っていないが、校長先生の話が大概長いのは、先生もまた校長先生の長話に耐えに耐えた結果「校長先生になったら長い話をしなければならない」という義務感が生じているのかだと小学生の頃から考えていた。

新米教師から教頭先生に至るまでの道のりにおいて、きっと先生たちは「私が校長になった暁には決して長話などすまい」と思っているだろうが、その役職のバトンを受け取った途端にそういう義務感に飲まれてしまうんだろう、と金田一少年の事件簿名探偵コナンが流行っていた頃合いの子供として推理、結論付けた。

じっちゃん(死後、愛人に遺骨を持ち逃げされた)の名にかけて!

(自分なりの)真実はいつも一つ!

昼休みに校長室に数人ごとに呼ばれて語らうという催しで尋ねてみようと思っていた話を書こうと思ったんだけれど、当方ビビり極まりない子供だった為聞けもせずオチも無いし、そもそも雑木林のことを書きたかったのに何でこんな話をしているんだと愕然としている。

久々に書くとこう言うことになるんだな、と思いつつ、大体常にこんな感じだった様な気もして、気にしないことにする。

その家の近くの雑木林には竹が生えており、春に一気に伸びる。筍だったものが僅か数週間で背よりも遥かに高く育つ様は恐ろしい。この成長速度を利用した拷問とかありそうだよなと思うものの実在すると怖すぎるので毎年調べるには至らず。世の中知らないで良いことは、あるのだ。

その伸びた竹に、夏が近付くと蔦状の、名前も解らない植物が絡みつき、竹を登っていく。

太陽をより多く浴びる為に登っていくのだと思うんだけれど、大きく育ってくると竹が重みに耐えきれず、曲がり始め、人の目の高さ程にまで竹も蔦も下がってしまう。

それでも蔦は成長を続け、青々と茂り、最終的に覆い隠された竹には日も当たらず、重みに耐えかねて折れてしまい、蔦も秋には枯れてしまう。

人間の勝手なのは承知ではあるけれど、それを見ていると切なく、虚しく、悲しくなってしまう。

竹は蔦にのし掛かられ、折れる為に伸びた訳ではないし、蔦も竹を折る事が目的では決してないと思うと、何だか上手くいかないあらゆる事を連想させてしまってそんな気持ちになってしまうんである。

夏が憎い訳でも、嫌いな訳でも無いけれど、生命力に溢れ返って眩しい中にどこか隙を晒して歩いておると喰らってしまうこともある、という話であり、青く高く伸びた竹の足元に蔦が絡み始めるこの時期になると、やがて迎えるその時を考えてしまい少し気落ちしてしまう。

もうすぐ夏が来るのだ。