性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

働くこと、雨宮さんのこと。

働くって何だろうとここ数年は沢山考えてきた。超仕事術みたいな方向じゃなくて、何で働いてんだろみたいな類のことを考えてきた。かと言って別に働きたくないでござる!という訳でもなく。モチベーションとかそう言うやつだ。

最初は答えを探して本なんかを読んでみたけど、製本されて表紙が付いてISBNコードまでついて店頭に並ぶのは良くも悪くも立場的にも志的にも行動力的にも凄い人だらけで、そこにはただ凄いことが書かれていて答えなんてなくて、普通の人にとって働くって何なんだろうとボンヤリ考えていた。

まぁそもそも答えが欲しいとか言う時点で邪な訳で、ヒントにして自分で考えないと何の意味もない、そう頭で解っているのにどうしても答えを欲してしまう。啓発本を消化出来ずに餌食になるタイプの人間に対する感情は同族嫌悪だったのだとようやく思い知る。よう俺。俺だよ俺。

 社会人を10年、それも同じ会社に勤め続けていても「楽しく働く」みたいな事を言われる度に全然意味が解らなくて苦しい。何語だよそれ。やり甲斐を就活生に聞かれても「人それぞれあるから」と笑って誤魔化すしかない。

それと同じくらい仕事をサボったり、上司や同僚の文句を言いながら生活している人の感覚も上手く理解出来ない。そこまで思わせる仕打ちを幸運にも受けたことがないからこんな事が言えるのかも知れないけれど、あまり共感出来ない。

どっちつかずの人間だ。一体そういう人がどれくらいいるのか考えたこともないけれど、少なくは無いのではないかと思う。

僕の場合は、ただ「やりたい仕事かどうかは解らないけど性格的に向いている気がするし、生活する為のお金を稼ぐ」為に働いているだけだ。

仕事で自己実現出来る人は素晴らしいと思うし、沢山努力もされたのだろうと思いながら本やインタビューを読み眩しく思うけれど、かと言って自分が怠惰だとは思わない。

黙々と仕事を納め、淡々と報酬を貰う事で社会的地位と安定を手に入れた。誰かに必要とされ、誰かを必要とすることが根付いた職場に恵まれ、拘束時間は長いけれど対人関係のストレスは皆無でのうのうと生活出来ている。

先の本を執筆された方々と何より違うのが、特別な能力も習得せずにのうのうと生活出来ているという事と、そのペラさで土台が揺らいだ時に生きていけるのかという不安を抱いているのに、現状滞りなく生活出来ている故に本腰になれない、常に後回しになってしまう事への後ろめたさではないかと思う。意思が弱いで片付けているという自覚があったのだと思う。

頑張っていないことは無いんだけど、頑張り切れていないという気持ちではいる。

それがどことなく、誰に言われるでもなく引け目になっていて、働くという事の意味を悶々と考えるに至らせる。

でも、本当はよく解っていた。難しい問題じゃなくて、働くという事に対して単純に自信が無かったのだ。

 

その中で出会ったのが雨宮まみさんだった。

AVライターという肩書以外での活動が目立つ様になってから雨宮さんのことをネット上のコラムで知り、色々読んできた。雨宮さんは女性の恋愛相談や、自らのこじらせた過去・現在を引き合いにほんの少し先の未来を見据えた文章を沢山書かれており、気付けばそれを昼休みに何度も読み返していた。会社のパソコンのブラウザのお気に入り欄には「雨宮さん」というフォルダがあって、いくつかのリンクが入っている。

具体的なエピソードは純度及び精度が著しく落ちてしまう為、又聞きの様に話すのは控えるけれど、僕にとって雨宮さんはいつも強過ぎるくらい率直な意見と、それ以上に相手の良い所を見出す、時には生み出して(それも嘘っぽい大袈裟なものではなく、ストンと納得出来る様なポイントを生み出して)肯定してくれる人だった。

すっげースポットライトの当て方だな!と思った。闇に紛れさせても良い部分にもガッと当てる。優しいなと思った。

それを読み、我ながら図々しいなと思いながら、雨宮さんの文章を読むたびに視点の転換というか、自分の性格や仕事に対する意識みたいなものを別の言葉で、別の見方で捉えなおして考えてみる癖がついた。

こんだけ長く勤め続けられるのは自分でも向いていると思っているからではないか。

やたら些細な事で相談の電話が掛かってくるのは都合が良い相手と思われているのではなく、能力を宛にされているからではないか。

特に成果物について問題になったことがないのはそれだけのクオリティーを示せているからではないか。

恋愛について多くを書かれている雨宮さんの文章を全部仕事に投影していくのは中々ズレている気もしたのだけれど(あとは飲み会でアラサー既婚者に寄せられがちな恋愛相談に対して雨宮さんのコラムを教える事で片付けるという活用もさせて頂いた)、その結果、良い意味でプライドが高くなれたというか、無意味な謙遜をしなくなった。自分は仕事が出来る。評価もされている。それでお金を稼いでいる。

自分も疲れないし、相手にも無駄にエネルギーを使わせずに済む様になった気がする。バーンと出し過ぎてちょっと恥ずかしい事もあるにはあったけれど、それはそれ。引っ込み思案は図々しいくらいで良い。

働くということが何なのか、志の方面では相変わらず何にも解らないのだけれど、少なくとも「生活する為に働いている」ことへの後ろめたさは随分と薄らいだ。

お金を稼いで、週末に、時には平日にも自分為に楽しいことをする。それで良いじゃん、そう思える様になった。

 

そして今週、何となく気が向いて読み返していた雨宮さんのコラムで服をたくさん買うというものがあり、ふと自分だけが欲しいものを思い切って買ったことが無いのではないかと思った。

結婚もした、家も買った。

もちろん必要だと思ったからだし、そうしたいと思ったからだけれど、これは奥さんとの二人共通の「どうしても欲しかったもの」だ。そう考えると何か高い買い物をしたくなった。

スーツみたいに必要に駆られた高額商品ではなくて、単純に自分が欲しいからと言う理由で自分だけの為に買い物がしたくなった。

そんな気になって、そんな内容のツイートをした翌日、雨宮さんが亡くなったとニュースで知った。

詮索もしたくないし、美化もしたくないけれど、色んなことを教えてくれた先輩が突然いなくなってしまって、こんな時一番相談したい人がいないという感覚になってしまった。

ただ悲しかった。お礼も言えないままで終わってしまった、みたいな親密さは無くて、単純に世に出た彼女の出版物で読みたいと思いながらも購入していなかったものが何冊もあった事が悔しかった。

今更買ったって雨宮さんの生活の一部にはならないんだという気持ちが強くて切なくなった。あんなにお世話になったのに、殆どお返し出来なかったんだという自分への腹立たしさだった。仕事について活用させて貰っていたので、どうしてもお金の方に気が向いてしまうのが面白くてちょっと笑ってしまった。

 

その翌日、予定通り自分が欲しい、着たいと思った服を値札も見ずに買った。私服用のジャケットとパンツのセットアップ。8万円だった。

気持ちが良かった。スカッとした。ドキドキした。働いてて本当に良かったって思った。

わざわざATMでおろして、会計の時に現金で払った。自分で一万円札を8枚数えながら、なんだ全然買えるじゃん、スッゲー似合うし、僕はこれまでちゃんと頑張ってきたんだな、という圧倒的な肯定を得て指が震えた。

またこんな日を過ごす為に仕事を頑張ろうと思ったし、その為に働いたら良いと素直に思った。

ただ、もっといろんな事を書いて欲しかったなと思いながら、それでも世に本を出してくれた雨宮さんと出版社への感謝と、単純にまだまだお世話になる気も満々な為、持っていない雨宮さんの本をアマゾンでカゴにブチ込み、これを書いている。

 

突然これを読んだ人からすれば、どこをどう繋いでいいのか解らない支離滅裂な文章だと思うのだけれど、当の本人としては滅茶苦茶に筋が通っているつもりなので、あぁハズレ引いたなくらいに思って貰ったら良いと思う。

雨宮さん、ありがとうございました。これからも勝手にお世話になります。

 

またー。