性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

荒れ狂う猫ちゃん部族のゾンビ

公園を歩いたり走っている際、トコトコ歩いている鳩を警戒から飛ばしてしまうと申し訳ないので距離を取るルートを採用しがちであることを同僚に指摘され、動物愛護的な所があるという評価を受けた。

そもそもの取っ掛かりとして愛護とは違うものではないかと思うのだけれど、それを言うとここで終わってしまうのでそこは本作の設定、世界観として処理したい。

その中で、人間としての価値観において、「自分だったら警戒から無駄な運動をさせられたら嫌だな」と愛護よりも怠惰と小心に基づく結論であるのでそんな大層なものでも無いのだけれど、そもそもその視点で鳩について考えない層も普通にいるとは思うので、そこと比べるとまあ愛護とまでは行かずとも動物贔屓な方なのかも知れないと思った。動物贔屓。大人になってからは猫ちゃんに対する贔屓が一番酷いかも知れない。んー猫チャン!申し訳ない、忘れて欲しい。

いつか猫を飼う日が来るのかは解らないけれど、可愛がり過ぎてノイローゼにしてしまわないか一抹の不安がある。結果、嫌われ過ぎて僕もノイローゼになるだろう。共倒れという暗い未来しか想像出来ないネガティヴな僕は贔屓を通り越して畏敬の念を動物に抱いているのかも知れない。そんなことを考えた。畏敬の念という言葉を俺に教えた作品、ぬらりひょんの孫

 

暫し日記を書いていない間に色々あったのでどんどん思い出してサクサク書き留めていく。

 

USJのハロウィンイベントに「荒れ狂う部族のゾンビ」が登場すると人から聞いてその情報量の多さに妄想が止まらなくなってしまった。

人から聞いた存在である為、真偽の程は定かではないのだけれど、少なくとも僕にとって大切なのはそこでは無くなってしまっている。

ゾンビになった部族が荒れ狂う様になった訳ではなく、恐らく元々荒れ狂っている部族がゾンビになったからこそ「荒れ狂う部族のゾンビ」であると思う訳で、ではその荒れ狂うという部族の様式に到達した由来は何だったのだろう。資源に乏しく周りから略奪する生活がそうさせたのだろうか、それとも厳しい自然の神を自分たちも荒れ狂う事により同調を示すことで治めようとしたのか、そんなことを考えていた。

普段は我々と変わらぬ気質でありながら催事の際には荒れ狂う風習としての荒れ狂いなのだとしたら大阪の岸和田と岸和田祭りに近いものなのだろうか、だとして荒れ狂う部族の村の特産品は何なんだろうか、荒れ狂う部族が手塩にかけて農作物を育てているという考えれば普通なのに言葉の流れとして何となく面白い現象を当人たちや周りに暮らす他の部族はどう受け止めていたのだろうか。

実に興味深いので荒れ狂う部族に詳しい方がおられましたら教えて頂ければと思う。(USJだから何かの映画に出て来てたのかな、くらいの素の推理はしている)

 

ナンバーガールの活動が活発になるにつれ、逆に周りの渇望がさらなる境地に達しているのを感じる。存在しないと思っていた憧れが存在している現状なのだから、欲しいと願うのは当たり前であるが、案外自分がそこに全く何も感じないのだなと思って大変に意外で驚いた。

とても好きで聴いていたつもりだったし、実際好きだったと思うんだけど、各々の活動でバッチリ格好良い姿を「続き」として観てしまったので僕の中でナンバガは始発点ではあるけれど最高到達点ではなくなってしまったのかも知れない。だから何だという話だけれども。

あとは割と歌詞に対しての思い入れの無さが楽曲に対しての思い入れの高さについていけていないのも大きいと思っている。自分も歌詞から多くの情報を得るとされる邦楽リスナーなのだな、と今回のことで実感している。

 

宝塚へ宝塚歌劇を観賞へ行った。

煌びやかで美しく、皆が凛としており眩しかった。そして予想の10倍くらいギャグパートが盛り込まれており、滅茶苦茶笑った。

美しい作品に触れに行くぞ!というモチベーションで行ったのでまさか美しい上にこんなに笑わされると思っておらず度肝を抜かれた。

阪急電車などでよく演目のポスターを見かけており、素人的にベルサイユの薔薇みたいな「宝塚でやりそうな世界」だけでなくかなり多彩な演目を上演されているのは何となく知っていたけれど、ここまで1つの演目の中でコロコロと表情を変える演出がなされているというのは大変に衝撃で面白かった。

若干の当日券、そして立ち見券が出るというのも知れたので今後は興味が湧いた演目には積極的に飛び込んでいこうと思うものの、日本でも有数の老舗の沼である為、オタク気質な自身が深みに嵌ると人生が変わってしまいそうで腰が引けている部分もある。

それでもまた足を運んで観劇しようと思う。

 

怖い話が苦手なのに怖いもの見たさで覗いてしまう習性があるので「ほんとうにあった怖い話」の特番を録画してしまった。

そんなものがいつまでもレコーダーに残っているのも呪われそうで怖いので、怖くなったら止めてラグビーかバレーのW杯を観て溌剌とプレーする彼らに幽霊の類を蹴散らして貰い、挙句勇気を貰って再び「ほん怖」へ向き直るというチキン極まりないスタイルを採用した。

日本代表のスポーツ選手もこんな国民へこういうジャンルの勇気を与えているとは思わないだろう。申し訳ない。

幽霊も幽霊でスポーツ選手に蹴散らされて戸惑っていると思う。頼むから成仏してくれ。

今回の「ほん怖」はそのお陰か寝られない程怖いという感じもなく(ホラーの情緒を根刮ぎ断っているのだからそれはそうだろう)観終わる事が出来た。

ラグビーもバレーも日本代表は試合に勝利し、ホラーの流儀において僕だけが負けたという構図に気が付いて多少落ち込んだけれど、これくらいじゃないとホラーを受け止めきれないので仕方がない。精進せねば。

 

森見登美彦先生のトークセッションが武庫川女子大であるとの事で、そのついでに甲子園球場のスタジアムツアーを予約して行って来た。

阪神タイガース高校野球の試合で沢山通った甲子園球場ではあるものの、普段は入れないブルペンやロッカールーム、グラウンドやベンチに入れるツアーは物凄く新鮮で楽しかった。

全員赤の他人なのに一同、どこを見せて貰っても手を叩いて喜ぶ赤子の様なテンションで妙なグルーヴが生じ、最終的にはその後訪れた甲子園球歴史館ですれ違う度に会釈をする様な関係性に到達していた。一緒に高揚する体験をすると性別や年齢に関わらず親近感が湧くんだろうか。

色々コースに種類がある様なのでまた別のコースにも参加したい。

野球帰りにたまにご飯を食べに行くお店でハンバーグを食べてから森見登美彦先生のトークセッションへ。

在校生と卒業生から選ばれたパネラーと司会進行の方と森見先生のトークで、基本的にパネラーが一番好きな作品における質問をして、それに森見先生が答えてくれるという流れで面白かった。

トークセッションでガチガチに文学的な解釈の話をされたら置いていかれてしまうという緊張感を持って挑んでいたので、ライトな、一読者からの素朴な質問に終始してくれてホッとした。

好きな作品は沢山あれど、セッションの中で森見先生が仰っていた「現実社会で言うと引っ掛かってしまう様な言葉を言える様な世界を描いている」という内容の話がとても印象的で、どうしても作品と著者を結びつけてしまう結び目を優しく解いて貰った様な気がした。

考えずとも当たり前のことではあるんだけれど、例えば村上春樹先生なんかに対して、個人的に無意識にそういう見方が働いている様な気がしていたので納得がいった。

後は語彙責めとなりそうな所を軽やかに和らげてしまう森見作品の魔法の仕組みやら、その語彙自体に対する自然な付き合い方(向き合い方というよりは付き合うという表現が似合う)、自分が自然と必要とする語彙があれば良いのではという考え方は作品と同じ様にホッコリさせて貰った。

合わないものを無理に振るうと思った様な伝わり方にならない。大事な視点だなと感じた。

 

色んなものに触れているのだなと我ながら驚く。

少しでも血肉となっていれば良いのだけれど。

 

またー。