性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

ソドムとゴモラでボランティア。

Aマッソの漫才の中で、世の中は不公平というものの喩えに「ボランティアをしている人にも口内炎が出来る」という内容のフレーズがあり、善い事をしている人が口内炎なんて小さめな地獄に見舞われるのは悲しいので出来ないで健やかに暮らせていて欲しいなぁ、と感じて響きの穏やかさと反比例するかの様に強烈で印象に残った。
不公平さを考えた時に器の小さい人間なのでどうしても自分主体になってしまい、カラオケにハヌマーンとサイサリが入っていない事が真っ先に思い浮かぶ。カラオケという最大限にこちらを甘やかしてくれる場で、遠慮なく好きなアーティストを、それも凹んでいる時に自分を立て直してくれるアーティストの曲が歌いたいという甘えられる故に要求が過剰になっている系の不公平であるが、LiSAの曲を泣きながら歌っている人などを見かけると、この人にはそうやって歌える曲があるのだなぁ、不公平だなぁなどと思ってしまう。
カラオケもお金を掛けて提供するのだから基準があるのは当たり前であるし、それを責める気持ちなど毛頭ないんだけど、そんな事をたまに思ってしまう。


堕落した住民に神が怒り、滅ぼされてしまった街の伝承でお馴染みの旧約聖書収録作品(作品?)「ソドムとゴモラ」が実際に隕石の爆発で破壊された古代都市をモチーフに生まれている可能性がある、というニュースを読んで、何か旧約とか新約って保険の分類みたいだな、年末調整早めに出さなきゃなと思ったんだけど、それ以上に「実際に起きた事が伝承になりがち」を改めて実感した。
事実は小説よりも奇なりというか、日本の昔話なんかも割と誕生の背景を探っていくとルーツやらモチーフがある訳で、要するに超常的な現象でなくとも自分が起こした何らかが長い年月を経て伝承のモチーフになってしまう事があるんじゃないかと思って、自分の人生を伝承ビギナーなりに伝承ワナビー目線で振り返ってみたら「マーブルチョコを鼻に詰めて取れなくなって医者に連れて行かれ、病院にくるほど大変な事をしてしまったからもう自分は助からないんだと大泣きしたらその熱で溶けて茶色い鼻水が出た事件」と「何度言われてもマジックを片付けないので玄関に軟禁され、謝っても許して貰えないので自力で脱出しないと死ぬまでこのままだと赤子だった妹の落下防止に設置されていたベニヤ板を泣きながら殴り割った事件」が真っ先に思い浮かんで、何というか幼い癖に随分と自業自得なのに悲観的だなと恥ずかしくなってしまった。
とは言え、自分の行いが時を経て伝承や神話になる可能性は記録さえ上手く遺す事が出来れば0ではない。もしかしたら世の自伝を自費出版で書く老人はコレを狙っているんだろうか。虎視眈々、老人よ神話になれ。
数千年の後に遺る保管方法を考えるという視点に彼らが立てていない事は間違いないが、執筆という大半の人間が為し得ない大きな一歩を踏み出せているのも事実である。スゲーよ自伝老人倶楽部。
僕の場合は彼らと比べると随分と先は長いが、今後やらかしてしまっても「あぁ、これで俺も伝承になってしまうな」とか「神話間違いなしじゃん」とかしばらくの間は思ってしまうだろうから、何というかメンタルのコントロールに一役買いそうだなと見込んでいる。


伝承というか伝統というか、貴婦人がお茶会で催すお茶の葉占いなるものがあると少し前に書いた。
ティーカップに残ったお茶の葉が自然と作り出した模様により運勢が占えるというもので、ハリーポッターの世界では占学の最初の授業で登場し、最初のジャブの癖にハリーに超ヤバい運命が迫っとるでとアピる事により後に控えていた暗示たちのハードルをぶち上げてしまった事で有名なものである。
漫才の最初のボケが一番良かった、みたいな状況を避けねばならなくなった後続の暗示たちの気持ちたるや。
そのお茶の葉占いの早見表をモチーフにしたコースターを先日訪れたハリーポッター展の物販で購入したんであるが、現代においてお茶の葉がカップに模様を作る状況というのは一向に訪れない。
ティーバッグを基本的に使っているからなんだけど、それ以前に普段のファーストチョイスがカフェオレなので紅茶の葉占いのコースターに当然の様にカフェオレが鎮座しており、完全に日常の風景になっている。
伝統、文化を継承していくことの難しさを感じる。
その割に、カフェオレばかりの自分が紅茶の葉占いに強い親近感を抱いている。
何故かを考えてみたところ、納豆占い歴が長いからではないかという結論に至った。
納豆占いとは、朝食に食べる納豆のフィルムについた豆の数や位置からその日の運勢を占うもので、自分が思いつきでやり続けているだけで特に長い歴史も明確な基準もないが、何となくやめられないまま続けている占いである。
フィルムを剥がして何となく「今日は良い感じかも知れない」とか「今日は何かあるかも知れない、気をつけよう」とか勝手に思っている。
そんなものと並べて親近感を抱かれても迷惑かも知れないけれど、最近は豆の上にフィルムがかかっていないタイプも見られ、紅茶の葉占いと同様に廃れつつあるという共通項もあり、仲間であると自負している。
ハリーポッターに紅茶の葉占いの代わりに納豆占いが登場し、ハリーが剥がしたフィルムについた豆が描く模様を見て先生が「とんでもない不幸が!!!」とおったまげる可能性も決してゼロではなかったんじゃないかと思う時、運命の悪戯というフレーズが僕の頭の中でニヤリと笑うんである。
勘違いというやつである。


またー。