性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

ボーと一緒に僕もおそれている(※ネタバレ有り)

179分という上映時間の長さと内容が濃淡把握出来ないまでも完全に悪夢であることが保証されている不幸の外貨積立保険みたいな存在感に気圧され出遅れること1週間ちょい、ようやく「ボーはおそれている」を観た。

何をとち狂ったのか午前休を取得して朝の9時から12時過ぎまで、資格試験か会社の研修かという拘束時間、同じ施設内では「ハイキュー!!」が上映されており、こちらだと179分あれば2回は観られるので「眩しくて楽しくて好きな相手に2回会えるのに、毎回徹底的に精神的に不安を押し付けられるのに大好きな相手に1回会うのを選んでしまうのか」と思いながらパンフレットを買った。

ハイキュー!!も早いうちに観たい。一番の推しキャラ(音駒高校の夜久選手。ちなみに二番手は烏野高校の月島選手)が活躍するのを大きいスクリーンで拝みたい、けど、今日はアリ・アスター監督が考えた最新の(発案含めれば最古らしいけど)歪な家庭のお披露目会に行く。毎度だけど全然ヒットしなさそう(実際は知らないけど)なので早く観ないと、と焦っていたので。

 


どんな映画なのかあらすじを述べると「ボーという精神的に不安定な男が母親死去の連絡を受けて里帰りをしようとするも不幸に見舞われ、どんどん追い詰められて行く」とう作品である。

ホラー的な表現も、スプラッタな表現もあまり無く、現実なのか幻覚・妄想なのかどちらか解らない光景にただ怯えて不安になるという怖さに満ちた179分で、全て事実だと認識している主人公のボーよりも受け手の方が自分なりにジャッジしながら観ていくことになるので忙しい作品なのかも知れない。

公開直後では全然なく、今更誰も探してまで読まんだろうという事で、これ以降はネタバレしながら雑感を書く。

ホアキン・フェニックスがコンビニまで猛ダッシュ!映画『ボーはおそれている』本編映像 - YouTube

↑予告

映画『ボーはおそれている』公式サイト|絶賛上映中

↑公式サイト


まず個人的に「ボーはおそれている」を簡単に言い表すとどんな紹介の仕方になるんだろうと思ったので書き出してみたい。

・魔法使いを辞める日

・こどおじの末路

・成長しない人間が向かうきさらぎ駅

・主体性のない母をたずねて三千里

・史上最悪のA Thousand Miles(ヴァネッサ・カールトン)が聴ける映画

こんな感じだろうか。

 


この物語はボーという男が住んでいる治安最悪な街から故郷へ辿り着くまでを描いているんだけど、パート的には「治安最悪の街」「幸せな家庭」「森の劇団」「実家」の4つに分けられるのでそれに沿って感想を書いていきたい。

 


<治安最悪の街>

自身が生まれた時の母と医師の会話を効かない視界でボーが聞いている様な幕開けは、最後は母の元に帰っていくからかな、と思いながら観ていた。179分も使われるとこの始まりを覚えていられるのかな、と思っていたけど、ボーという人間の抱える神経障害っぽい部分へのモナからの影響というのを徹底的に叩き込まれるので忘れずにいられた。全然有難くないけど。

ボーが長年頼るセラピストの診察を受けた穏やかで都会的な空間から家に戻るも、その家がある街が暴力と薬物が吹き荒れるとんでもない場所に住んでいるアパートがあり、中に入ろうとする浮浪者からエントランスへ走って逃げ込むほどの治安の悪さで普通に「何でこんなとこに住んでんの?」と思わずにいられなかった。

ゾンビ・ドラッグが流行っている街のドキュメントをたまたまYoutubeで観たことがあるんだけど、それに暴力性をプラスしたような街だった。

そこから「父の命日」というイベントを母のモナと過ごすために飛行機で里帰りする予定だったものの、出発の直前に玄関で忘れ物を取りに戻った隙に家の鍵と荷物を盗まれた事で頓挫してしまう所から物語が動き始める。

鍵を失ってしまい、建物の清掃、修繕などを管理をする男に訪ねるも「お前はもうお終いだ」と罵られる辺りにボーの酷い嫌われっぷりに、何もそこまでと思ったけどこれも後々に納得が行くので割愛。

帰省が出来ないとモナに連絡を取ると呆れられ、電話を切られてしまう。

焦りから処方された精神不安のための薬を服用しようとするも「必ず水と飲むように」と記載されているのに水が無く、鍵無しで外に出たら浮浪者やジャンキー達に部屋を乗っ取られ、外で一夜を明かすという散々っぷり。

単に不幸なだけかと思いつつも、善良ですよ、無害ですよ、と優しい口調でアピールするものの自分で何かを決める事が出来ず、場当たり的な行動に終始する姿が何とも痛ましかった。

母親にカードを止められていることをどうにかしてもらおうと電話しようとしている所で、中年男がクレカの管理を親にしてもらっていると言う事実にドン引きしてしまって、そんなだから管理の男性に嫌われていたのかと思ってしまった。

仕事をして金を稼いで生きている人と、親の管理でカードが使えて生活出来る人というのはあまりに同世代の関係として不味すぎる。

治安の悪い地域で何とか暮らしている自分の視界に仕事もせずのうのうと同じ建物に暮らしている人間がいたらどうなんだろう、と考えると嫌いそうなのも解る。

水一本すらカードで買おうとする所からして、家で食べていたレトルト食品や愛用しているデンタルフロスなんかも与えられた金で買ったのだろうなと予想出来る。

この歳までそういう取捨選択をしていない人間特有の純粋さみたいなものをボーから感じてゾッとしてしまった。

カードの件で電話した事で母が亡くなったと知り、最終パニックになって外に飛び出して車に撥ねられた所で最初のパートが終わるんだけど、出発もしてないのに家の前で車に撥ねられるっていつになったら旅が始まるんだよと観ているこっちも衝撃を受けた。

何かを決める事が出来ずに先送りする人にありがちな事の最悪級(最上級みたいな)な気がした。

 


<幸せな家族>

なんと車に轢かれて看病される為に搬送されるという方法で実家に向けて若干近付いたっぽいボーは、外科医のロジャーとその妻のグレースという夫婦に娘トニの部屋を療養場所として提供され、手当を受けるんだけど、もう病院じゃなくて家に運ばれている時点でこちらとしては「何か大きな陰謀に巻き込まれているんじゃ」というハラハラさがあって不安になった。

車で撥ねたという後ろめたさからくる善意をはみ出す高待遇(名前の刺繍入りのパジャマを用意されるとか)っぷりが不穏さに拍車をかける。

その状況を疎ましく思う娘のトニの視線と、亡くなった兄の戦友で精神を病んで同居しているジーヴスの攻撃性に怯えながらも身体を休めるボーが、トニに喋りかける時に異様に早口に優しめな口調になるところに異性との接触を絶ってきた人間特有のドギマギした印象を受けていよいよ「親の脛齧って引きこもりの中年」っぷりが際立っていてキツいものがあった。

グレースがボーは何者かに監視されているとヒントを送ったところから、ボーはやっぱり何かに巻き込まれていて、少なくとも夫であるロジャーはそれに関わっているのだと解る。

目的はこの時点では判然としないけれど、ボーはここを逃げた方がいいのだろうなと思っていた。

娘のトニが車でドラッグを吸わせてキマった状態のボーを友人に動画撮影させた後、学校の試験に落とされて絶望し、ペンキをがぶ飲みして自殺を図ったのが痛ましかった。

トニの口ぶりからして「ボーの動画を拡散したから消された」みたいに取れて、ボーを取り巻く大きなものが彼女の未来を消してでもその行動の代償を払わせたと感じて凄い怖かったし、ボーの感覚からするとトニは亡くなってしまっており、それがボーの勘違いだといいなと思うくらい個人的にはこの場面がショックだった。

彼女が最後に言いたかったのは「お前は何者なんだよ、何でお前なんかに私の人生を滅茶苦茶にされなきゃいけないんだ」という事だろう。一緒に死ねとペンキを飲ませようとしたのも、復讐に道連れにしたいという気持ちの現れだったのではと思う。

良心から危険を知らせていたにも関わらず娘の命を絶たれたグレースが不幸過ぎる。

関わらなければ失われなかったのがキツイ。

ボーはそこから逃げ出す為にガラスの扉を突き破って森へ逃げ込んだんだけど、口では帰りたいと言いながら行動に移さず、何か究極的に不利な状況になって始めて逃げ出すという行動スタイルをここまでで2回繰り返し、最後も気絶して終わるという共通点に「これはコント的に次もそうなるんだろうな」と思ってしまった。(し、実際そうなりました。悲劇と喜劇は紙一重ですか)

それにしてもガラスに突っ込んで走れるという痛みへの鈍感さがある割には刺し傷にはかなり敏感なので、道中の怪我には本人の妄想による誇張が含まれているのでは、ていうか見ている光景自体も妄想で上書きされてる部分があるのではと感じる様になった。(例えば住んでいる街の浮浪者も実際には2〜3人なのに何十人いる様に見えてるみたいな)

今後、色々解説など読んでいけば解るだろうけど、思ったよりも視覚的に騙されてここまで来てしまったのでは、とここらへんで凹んだ記憶がある。身構えて映画館に来た癖に結局しっかり掌の上で踊らされていたんだな、と。

何にしてもボーが欲しかったであろう幸せな家庭が結果的にボーが加わる事で崩壊してしまったのは物凄い皮肉だなぁとしんみりした。

 


<森の劇団>

グレースたちの家から逃げ込んだ森で、森の孤児たちという劇団の助けを受けるボーは彼らの演じる劇に自分の人生を重ねていく、んだけどこの劇の内容も途中から完全にボーの妄想の物語に取って代わられているのが解る。

彷徨う男が理想の村を見つけ、そこで働き、人を愛し、子供にも三人恵まれ、しかし天災に押し流され、家族を探して放浪する先に子供と再会するという物語が描かれたものの、舞台上で演じられていたのは「オズの魔法使い」の様な演劇っぽかった。

幸せな家族を目の当たりした事も影響しているのか、ボーの理想と「そんな幸せになれる訳ない」という自虐、そでもやっぱり自分に甘いのでハッピーエンドに着地したい、みたいな気持ちが見せた妄想の中で、性行為をせずに子宝に3人恵まれたという話に対して子供に「僕らはどうやって生まれたのか」と戸惑われていたのが何ともギャグっぽくて笑ってしまったんだけど、社会的弱者の童貞だからこそ描いた「小さな幸せ」が当たり前の中にあって割とマッチョな感じなのが生々しくてゾッとしてしまった。

30歳まで童貞だと魔法使いになれる、という日本のネットで流行っていたフレーズを思い出して、魔法使いだから性行為がなくても子供がいるんだろうなと勝手に納得してしまった。これは監督の意図と関係なく、僕がオズの魔法使いっぽい劇の風景から連想しただけなんだけど、結局この「30歳まで童貞だと魔法使い説」が一番しっくり来る作品になったと思う。

劇はグレースの命を受けてボーを始末する為に追ってきたジーヴスによって滅茶苦茶にされてしまうけど、ここでも留まっていたのを何かに追われる様にして逃げ出し、足首のセンサーが爆発して気絶という終わり方で「成長しないなぁ」と思ってしまった。(ボーはセンサーだとも爆発するとも思っていなかったろうから完全に僕の感想なのだけど)

 


<実家>

車が行き交う道路にでたボーはヒッチハイクで家に帰るんだけど、泥だらけで怪我をした男を乗せてくれる訳なくない?と思っているとあっさりと車に乗っている。

ここでミッドサマーの序盤でもあった景色が逆さに反転するモチーフが車の車体に映る景色で描かれていて、「あ、ボーはもう逃げられないんだな、クライマックス来るな」と思った。

ミッドサマーではその表現がされた場面が、知っている世界と踏み込んではいけない世界の境界線を跨いだ瞬間として印象に残っていて、要するに逃げ出せる最後のチャンスみたいな扱いで自分の中にあったのでそう感じたんだけど、実際はどうか解らない。(そもそもミッドサマーもそういう意味でその場面があったのか解らない)

でも、本人はそんな機能があったと知らないとしてもセンサーも無くなった、街の暴力からも解放されて自由になれるタイミングだったと思うけど、もう家に帰るしかないと思い込んでいるボーはすんなり帰っちゃうよね、という感じだった。

実家の葬儀の展示物を見ていると、ボーの生活が如何に母親のモナに管理されているかがよく解って、ここで全部種明かしを喰らった気持ちになった。

住んでいるアパート、使っている生活用品、食べているレトルト、全て実業家の母親が一代で築いた企業が関わったものばかりだった。

ロジャーもポスターに登場していて、生活だけでなく、この帰省自体もモナの手によって差し向けられていたことが解る。ここでこの映画のボスが母親であると解るんだけど、ボーはぼんやりした感じで眠ってしまう。

これは安置されている母とされる遺体が偽物(乳母のもの)と気付いて、母が生きていると思ったからなのだろうけど、それが明かされていない受け手からすると「自分の暮らしが全部母親の管理下だったことに気付いてるのかな・・・」と呆れてしまう行動で、勝手にもうどうなっても知らんで・・・と思ってしまった。

そこへ初恋の人のエレインが登場して、盛り上がってセックスして、エレインが突然死する。ボーは「セックスすると死んでしまう、父もそうだった」みたいな事を言っていたけど、実際は逆に女性側が死んでしまっていて、ちょっと仕組みが解らないけど、エクスタシーを感じた側が死んでしまう呪いみたいなものなのかなと解釈した。

そこへ母親が登場して自分の葬式で自分の寝室を性行為に使われた事を激怒していた。凄い登場の仕方だな、と思った。こんなボスの登場の仕方あるか?

ボーは母親が生きていると気付いていたからと言い訳をしていたけど、母が自分とエレインを引き合わせてくれる為に帰省させたかったのかとか都合よく解釈してセックスに応じたのかなと思うと気持ち悪さもあってキツい場面だった。

モナの言動を聞いていると、愛情を持って管理していたのに裏切られてばかり、今回しょうもない理由で帰省をしないで済ませようとした事でいよいよ堪忍袋の緒が切れました、という事なんだけど、心の病気もあり自身の後継者としても役に立たない息子を、だったらいつまでも純粋な子供のままでいてくれる様に育てましょうと裏で全て徹底的に管理してやろうというのが凄まじい愛憎と執着だなと思った。

アパートの管理をしていた男も、医師のロジャーも、セラピストの先生も皆モナが抱える従業員や協力者だった事を考えると、管理人の苛立ちも、ロジャーの受け入れ方も納得がいく。

夢で繰り返しみた屋根裏に男の子が閉じ込められる記憶は、屋根裏に閉じ込められたのが双子なのか本人なのか解らなかったけど、冒頭の生まれた時のモナと医師の会話から二人いる感じではなかったので双子では無く、今の視点の自分が過去の自分を客観視している描写だから二人いるように観えていたのかなと僕は解釈している。

その夢の先で監禁された父を見て、その部分の記憶を忘れようとしていたのだろうな、と思った。

その父が巨大な性器のモンスターへ姿を変えて見えたのは、理想の父ではないという否定の気持ちなのか、エレインを死なせてしまった呪いの生殖機能の源流としての憎しみなのかよく解らない。そこにジーヴスが飛び込んできて父へ向かっていったのはボーの妄想なんじゃないかと僕は思った。彼の勇敢さ、暴力性があればこの場を打開出来るんじゃないか、という妄想が見せた幻だと感じたんだけど、それも怪物に人間が勝つイメージを持ち合わせていないボーには意味もなくジーヴスは返り討ちに遭った、という所なのかと思う。

初恋の人は死に、自分の生活は全て母に見られていたと知り、父親は自分の理想の存在ではかった、頼れるのは母だけだと現実を思い知り、泣いて縋ったボーに母は激怒して人格を否定する様な言葉を投げつける。

これは「魔法使いである息子が、ユニコーンな存在である息子だから許せてきた事を、性行為という最大の裏切りで魔法が使えなくなった、潔白でなくなったのでもう許せません」という意思表示だったと思う。母親の支配の究極版の言葉選びにラランドのサーヤさん発祥「お母さんヒス構文」のW杯があれば代表に選ばれるほどの威力があるなと思って聴きながら背筋が寒くなってしまった。端的で、しっかり子供扱いしながら、絶望的に辛辣だった。抗争も起こらない程のギャングスタラップ、ぺんぺん草も生えねぇ爆心地。

その言葉に「僕だって苦労した(つもり)だ!」と逆上して母の首を絞め、すぐに後悔して「自分の中にいる悪魔が・・・」みたいなリアクションしている所がマジで想像上の引き篭もり中年の家庭内暴力過ぎて絶句してしまったし、あ、これは死んだわ、どう死ぬか解らないけどもう助かる未来が見えない、と観ているこちらが諦めてしまった。呪物対呪物のぶつかり合い、結果が明白なのを除いてそんな印象も受けてしまった。

本来ぼやかすべき所の解像度が天体望遠鏡みたいな監督なのでこちらも早々に諦めて耐ショック耐性を取るしかないというか。

ボーが「やってしまった、これからどうなるんだろう」と放心状態でボートに出て洞窟に入った先が大陪審員なのか観衆なのかに囲まれたドームで最後の審判を受けるというのは令和版トゥルーマン・ショーという感じで笑ってしまった。

過去の母親の愛情に対する裏切りを映像で振り返ったり、魚に餌をやるのに人間には善意を示さないと言われても何も言えないでいるのが正直ボーじゃなくてもその異様な状況下じゃ無理だろと思うけど、弁護側が常に他責だったのもボーが原因を外に求めて自分が変わろうとしなかったことが有り有りと感じられ、弁護側が強制退場させられて以降は何も自分では弁護出来ずにボートが転覆して映画が終わる。

これまで何もしようとしなかった、経験や成長を蔑ろにして生きてきた人が土壇場で一発逆転しようとかませる様な事は現実にはあり得ないんですよ、とわざわざフィクションで言い聞かせられている様で胃が痛むというか、肩がずっしり重い感覚になった。

自分だって今まで社会人としてそれなりにやって来てるので、多少なり意思と労力と責任を切り売りして社会に接して来たつもりだけど、自分なりにやっぱ人との関わり方とかに線引きして正誤を設定してる部分もあるから、それが世間とズレてたら結構怖いなぁとか考えてしまった。

ボーが転覆した事で照明が落ち、特に歓声に沸くこともなく人々がエンドロールと共に退出していくのはSNSの炎上が最悪の結果生んだ後の一瞬の静寂みたいで何とも言えない気分になったし、あの人たちは背を向けて帰れるのに僕はまだこれ観てないといけないのかという暗澹たる気持ちにさせられた。

 


<オマケ>

勢いだけで書いたせいで途中で入れられなかったんだけど、個人的な思い出によってハイライト級に怖かった所に触れておきたい。

劇中の<幸せな家族>あたりだと思うんだけど、旅立たないとなぁみたいな段階でヴァネッサ•カールトンの名曲「A  Thousand Miles」が流れていて、母親であるモナが黒幕として登場した時にそれが思い出され、あんまりの悪意あるマッチングにぶちのめされてしまった。

歌詞のスタートがダウンタウンから始まるところや「今夜あなたに会えるのなら私が1000マイルでも歩いていくのを」「だってとにかく違うの あなたの思い出の中で 生き続けるのであれば そこは私の居る場所ではないの」とか、甘くて真っ直ぐに相手を想う歌詞だった筈が、ボーだけでなくモナの視点が判明した瞬間に愛憎渦巻く悪夢の旅路っぷりしか思い浮かばなくなってしまう。

何てことをしてくれたんだ。この曲、アルバム買うほど好きだったんだぞ僕は。

Vanessa Carlton - A Thousand Miles - YouTube

↑名曲MV


それにしても毎作品、歪んだ家族像を通して、再生とか絆じゃなく単純におしまいを描いてくる所に知的とか繊細というのとは違う、剛腕っぷりを感じる。

ミッドサマーは新たな母(の様な存在)になるまでの目覚めの物語だったし、ヘレディタリーは家族を守ろうとしたけど家族ごと壊れてしまう母親の物語だったけど、ボーはおそれているは母のエゴスティックでマッチョ過ぎる愛情が家族を壊す物語だったと思う。

監督は母という存在に何を求めているんだろう。宇宙?

生まれて羊水から出てくるところから映画が始まって、最後が母の眼前で水に沈んでいく事で還っていく、とパンフレットに書いてあって、水を欲して水で破滅して怯えた記憶に紐付いた水に最後は還っていったボーはボーで期待に応えられなかったマザコンみたいな感じもあるのかなぁとぼんやり考えながら職場に向かったら、会社で顔を合わせる人が皆なんか自分のことをどう思ってるんだろうと不安になって最悪な気分で働くことになった。

薄々覚悟していたけど完全にスケジュールの立て方を失敗した。休んで帰って酒飲んで寝るべきだった。


モナの特別であれと願って手を尽くしてきた存在が呆気なく特別でなくなってしまった事の喪失感の強烈さを思うとボーに感情移入出来ない自分もいるけど、「愛は押し付け」と美しく説いてくれた「エゴイスト」とは真逆の超加害思考でゲームオーバー演出に持っていく姿はやっぱりボーを憐れんでしまう、何度ふりかえっても複雑な気分になって正解が出ない。

モナは全てを注いで息子にせめて完全な子供でいるようにと願い、ボーは母親に結局最後は何しても許してくれる、だって愛してくれてるもんねと縋ったのだと思う。庇護される事しか知らなかったからボーはいつも恐れていたし、遅れていたし、畏れていたと思うので、邦題が「おそれている」なのは日本語的の面白さを上手く使って指定しなかったのかなと感心したりして、悶々とした気を紛らしている。

マジで最悪だよアリ・アスター監督。ごちそうさまでした。次も楽しみにしてます。

でも今はすぐにでもハイキュー!!が観たいです。

『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube

↑最高!皆で観よう!


またー。

 


※解説、パンフレット、インタビュー諸々これから読むので全部ただの感想です。公式情報と食い違っていてもそういうものだとご了承ください。