性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

巨大なシャトルで暮らす頭の切れる小学生。

小学生にとって遠足におやつを持っていく事は特別なイベントだった様に自分では記憶している。
好きなもの、気候に適したもの、食べやすいもの、定番化しており皆と共感を得られるものなど、可能であれば満遍なく、予算が許さない場合はどの部門を犠牲にするか(大にして気候に適したものや食べやすいものが切り捨てられ、後に現場で自分に不便をかける為、「現場の人間がどんな気持ちか、お偉いさんにはわかんねえんだよ!」みたいな気持ちになり過去の自分を呪う)を考え、その時々のスタメンを組んで挑んでいた様に思う。
プロ野球の監督はこれの凄い版の葛藤に常に苛まれているのか。しかもファンやマスコミは五月蝿いし、たまったもんじゃないな。
それはそうと、何故自分の遠足おやつデッキの事を思い返していたかと言うと、同僚の小学生のお子さんが遠足に「ばかうけ」の個別包装アソートパックを持って行っていた、という話を聞いて驚愕したからである。
自分のカードは味が数種類あれど商品としては1つ、それで多彩なデッキを組むクラスメイトたちにどうコミュニケートしていくのか大変心配になったものの、彼はアソートパックの物量と遠足おやつに不足しがちな塩気を武器にクラスメイトとおやつをトレードを繰り返す事により、結果誰よりも多くの種類のおやつを手に入れ食べきれずに帰ってきたという展開を聞いて心配が驚愕に変わった。
小学生ってそんな賢いの?それもうビジネスじゃない?本当に小学生?もしかして、新一…?
現役小学生時代の自分の価値観との乖離があまりに大きく、何となく嫌な手汗が出て、心臓の音が少し煩かった。
「俺、ばかうけのアソートパック買ってきた!」と宣言して場に出すと「ばかうけ?ウケる!」みたいな感じでトレードが成立するらしい(親が聞いた報告によると)んだけど、ばかうけとお笑い的なウケを繋いでやり取りが展開するという、ウケるという言葉が生活に浸透した今の時代の子供たちの面白さのボーダーがどこなのか解らなくて末恐ろしい。
末恐ろしいんだけど、うんこ漢字ドリルが流行る辺り彼らにとっても扱いやすい言葉が増えただけで実情は大差ないのかも知れない。
ともすれば同僚のお子さんがやたら賢い可能性もあり、もしかして新一…?とならざるを得ない次第である。


子供の頃を振り返ると言えば、フランスの解体される団地を舞台にした映画「ガガーリン」を観て、子供の頃に住んでいたマンションの管理人さんの事を思い出した。
物静かな方だったけれど、手際よく廊下の蛍光灯を交換したりポストの蝶番を直したりしているのを見かける度に「この人はこの建物の隅々まで知っていてカッコイイな」と感じていて、憧れを抱いていた。
ガガーリン」は団地や住人たちを愛しながらも、同時に誰よりも縋っていた主人公が解体作業が進む中で夢をなぞりながら懸命に生きる姿が印象的で、パリとは異なる生活文化と風景に触れる事が出来てとても良かった。
団地をロケットやコロニーの様に描く感覚は子供の頃に何度も味わった最寄りの非日常感で懐かしく、だけど映像になるとこんなに素晴らしいのかと新鮮な感動を貰える。
子供の頃の物の見方を思い起こされてしまう、キラキラしていて、でもしっかり苦い素敵な作品だった。

おかげで映画を観て以降、古いマンションや学校、病院や駅を見かける度にそれが宇宙船や秘密基地の様に思えてワクワクしてしまう。
現役でそんな事を考えていた頃よりも知識が増えただけ妄想の設定や描写が妙に細かくなっている。
何十年経ったんだろう、なんて思いながら書いている本日、誕生日で1つ歳を重ねてしまい、また一歩現役時代から遠ざかってしまった。
朝、家を出ようと腕時計をつけて文字盤を見るまで誕生日であることも完全に忘れており、自分自身への愛着だったり期待が薄まっていっている様な気がしてちょっと切なくなった。


読みたい本や観たい映画、聴きたい音楽がある生活が出来ているんだから楽しめていない訳では決してないんだという自覚もちゃんとあるので、もっとこう、そういうのを自分でもっと自分にアピールして良いじゃんと思える時間を増やせたらな、と思う次第である。
まあ無理な体勢でしゃがんでスーツのお尻破れる絵に描いたようなスタートダッシュ失敗感なんだが、「タコピーの原罪」の上巻と同じ日に生まれた人間としてはまだ恵まれてる方な気がしているよ。


またー。