性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

スマホを落としてしまう病。

人生で初めてせんべろを達成した。
これまでせんべろというのはお酒を前にしても理性がブレない真の大人が成す、自分にとっては半ばファンタジーの様なものだと思っていた。
何せお酒よりおつまみに本気になってしまうので何とか取捨選択しても1500円が関の山だったんだけど、今回たまたま予定の前に30分という時間の制約があった事で960円という金額を達成することが出来た。
まあその予定というのが「絶対こんなん怖いやん、アルコール入れてちょっとセンサー鈍らせておかないとアホ程受け取って使い物にならんくなるで」と予想される映画を観るというものだったので、その緊張もあって控えめになっていたのかも知れない。
今回観たのは「死刑に至る病」で、まあ飲んだ分の余裕を冒頭で消し飛ばす尋常じゃない怖さだったのでせんべろが達成出来た喜びも木っ端微塵。短い栄光だった。
ホラーとかオカルトとかそういうんじゃないし、スプラッタな描写も想像よりは少ない(が、滅茶苦茶ガッツリやってるので得意じゃない方は覚悟頂きたい)んだけど、なんというかそもそも主人公に殺人鬼がどこから影響を与えてるんだよとか、どういう発想でそうなってるんだよとか、本当にサラサラと明かしてくる答えがあんまりに強烈なので考えると考えるだけ怖い。
殺人鬼を演じた阿部サダヲさんのハイライト無しの目(予告でもお試し可なので是非)、話し方、姿勢、全部怖い。無理だ。ありとあらゆる意味で人間を壊す天才を具現化してしまっており、今となってはグループ魂の「君にジュースを買ってあげる♡」すらも怖いし、たまたま映画前にNo映画泥棒的な、海賊版への警告CMに採用されていたケロロ軍曹だって怖くなってしまう程である。(ケロロ軍曹のアニメのテーマ曲が「君にジュースを買ってあげる♡」だったので)
白石監督は「凶悪」でピエール瀧さん、「孤狼Level2」で鈴木亮平さんを、そして今回は阿部サダヲさんを二度と忘れられない恐怖の象徴にしてしまったのでもう正直若干こっちも怒ってしまう程である。返してくれあの平和な日々を。
雨のシーンやガラスに映る顔のシーンなど、これまでの作品とリンクしてくる恐怖の連鎖システムが発動しておりどうしようもない。ボコボコにやられた。
お陰で日記でまでせんべろの話がどこかに行ってしまった。どうしてくれるんですか。僕は怒っていますよ。ありがとうございました。


それはそうと生まれて初めてスマホの画面を割った。
モデルを更新するたびに強度が上がってまっせとアピールしていたiPhone(何故か家電のアピールポイントをエセ関西弁で再現してしまう)で、その言葉に偽りのないことを証明するかの様に駅の階段から5段下まで落としても無事だった愛機である。
もうG-SHOCKiPhoneかくらい勝手に信頼しており、一体世の中の人はどうやってこの頑丈な画面を割るんだろう、野良の像に踏まれたりするんだろうかくらい謎に思っていたんだけれど、家の玄関で靴を履こうと屈んだ際に30センチくらいの高さから玄関床のタイルに落ちた際に割れてしまった。
まさか割れるなんて想定をしていなかったので拾い上げて思わず「スマホを落としただけなのに」と観てもいない映画のタイトルが口をついた。
いやまあ落としたから割れてるんですけど。
コンクリートアスファルトに落としても割れなかった画面がまさか家のタイルで割れるなんて、自宅玄関のタイルはこの世で一番硬い材質なんじゃないかと疑ってしまうレベルであり、単純にジワジワと割れた悲しさが湧いてきて割と割れたショックを長く引きずった。割と割れたという字面の誤字無し誤字感。
スマホの画面が割れてしまった人たちはどんな気持ちなんだろう、きっと切なさと虚しさが画面を見る度に蘇るんだろうな、と思っていたが、実際そんな感じで過ごしている。
暫く自戒の念も込めて割れたままで使い続けようと思っているが、人間慣れてしまうものできっと時間が経てば気にしなくなるんだろうと思うし、単に画面の修理に持っていくのが面倒という事実、そしてそろそろ買い替え時だからなぁという戯言が罪悪感を上回ってしまうのも時間の問題である。


またー。

地獄はTシャツを着てすぐそばで暮らしている。

「mid90s」という映画を観て、90年代のカルチャーとか、青春とかそういうのをすっ飛ばしてリアルタイムで苦しみを提供される主人公の兄の「所詮、主人公になれない地獄」がキツ過ぎて気が気でなかった。自分が生まれ育つ過程では滅茶苦茶だった母親が弟を産み育てる過程では真っ当であろうとする姿とそれに沿うことを要求される生活、その正解を注がれて「ちゃんと育ててるんだからこの子は大丈夫」と扱われながらも反抗して荒れていく弟に対する「恵まれてる癖に何言ってんだコイツ」という怒りと羨ましさを足蹴にされた悲しさ、それでも弟だからという根っこの情。
決して主人公になれない添え物の地獄を味わっている兄からすると弟が輝きたいんじゃ!言うてもがき苦しんでいる姿は眩しいとは思いつつも、やっぱり「尊い犠牲こと俺」という地固め的にトライアンドエラーの結果である自分あってのステージングじゃないですかという気持ちは決して拭えない訳で。
まあ「タコピーの原罪」ではその逆が優等生キャラで描かれていたし、どちらの順番もあるとは思うんだけど、とにかくそういう地獄はマジでキツいので基本的に意識をそっちに持って行かれてしまう。
クソバカB級映画(面白かった)の「必殺!恐竜神父」ですらそういう場面が突然出て来て、ギャグ漫画の途中でトラックが突っ込んでくるかの様な衝撃に漫☆画太郎先生かよとなって動揺してしまった。
別にそれで映画の優劣を云々言う訳じゃなく、観る自分自身のウィークポイントがそこにあるんですわという話で、ポケモンのバトルであればそこが攻略の鍵になる的な事が言いたいだけ。

「mid90s」もそういうダメージを喰らいつつちゃんと面白く観たことを報告しておきたい。


映画つながりで「名探偵コナン〜ハロウィンの花嫁〜」を観たのでその話を書いておきたいんだけど、まあ毎年毎年新たな関係性萌えを提供してくれるなーという感じで、コナンくん達が推理のギアを上げて脳をギュンギュンいわせていくに従ってこっちのIQはジェットコースターの様に下がりまくり、最高です!!しか言えない感じになっていく訳なんだけど、阿笠博士ノーベル賞何回取れるんだよというレベルの発明を量産する大活躍なのに、アカデミックな世界から出禁喰らうようなとんでもないことをしたとしか思えない影の薄さで、マッドサイエンティストというよりは発明家界のヒッピーみたいなセルアウト(この言葉選び自体がそもそも失礼な気はするが)に興味がまるでないんだろうか、しかしあのバカでかい家に住んでいるんだから何らかの、自分達が当たり前に利用している何かを阿笠博士が開発していて、その特許で富を確保しているからあんな感じなんだろうか、もしかしてサスペンダーとかボールとか作る過程でゴアテックスとかヒートテック生み出して一山当ててる?お世話になってます!みたいなことを考えながら観ていた。
渋谷には地下貯水施設はあってもマンホールと下水道はないのかな、と思ったけど野暮が過ぎてバーローなので「新一…?」の強弱は歴代で言うと強めなのか弱めなのか、そもそも「新一…?」自体の物語における重さを強と取るのか、別に連想しなくない?という薄めのタイミングで新一の存在を引き出せることを強と取るのかみたいな事を脳内で競わせる事で邪念を払うなどした。
ドラえもんクレヨンしんちゃんの映画を特にチェックしないし、ディズニー作品を毎回観る様な大人にもなれず、コナンの映画を毎年楽しみにしている自分の、コロコロじゃなくてボンボン、リボンじゃなくて花とゆめ、ジャンプじゃなくてガンガンを選んできた圧倒的地続き感にクラクラしつつ、これもまた人生なのだと胸を張りたいし来年の作品もとても楽しみです。


またー。

短歌みたいなの詠んだりしてる。何故ならニンジャだからさ。

道端によつ葉バターの箱が落ちていたのを見かけ、思わず「四葉みーつけた!」と口走ったものの、その無意識とは裏腹に「エンゲル係数高いものポイ捨てするなよ、太れ」と思ってしまった自分の歪みが妙に気になる。春だからネジがちょっと緩んでいるんだろうか。車検間近?何だろう、ストロング系よりもエビスビールの空き缶がポイ捨てされている時の方が腹が立つ的な、勝手に「これを買う人はやりそう」みたいな偏見が出来上がっていて良くないなぁと思うけど、捨てられていたのがネオソフトの箱とかなら風景として素通りしていた自信があるのでまあ自分自身の育ちも知れるブーメラン作用があるなと。良い様に言えば怒りの侘び寂び。良い様に言えてるんかという疑問はさて置き。
同じようなもので飲み屋の多い繁華街や下町っぽい所でワンカップを持って歩いているお爺ちゃんを見かけても風景の一部過ぎてフラフラしてない限り何とも思わないけど、坂の上にありがちな高級住宅地で同じシチュエーションの爺ちゃんを見かけると「おい!不良のお爺ちゃん!標高高いから酔い回るぞ!大丈夫か!?」となってしまう。
気落ちしているタイミングで考えてしまうと、善良な人ならばどちらにも同じだけの反応をする事があるんだろうなと、自分はどこでそうなれなかったんだろうという様な所まで及んでしまうので本当に損な性格をしている。
それにしてもよつ葉バターの中身はどうなったんだろう。気温の高さに溶けてしまったんだとしたら、勿体ないけれど季語みがある。
「キラキラと溶け出すバター養分に箱の中からパンケーキの芽」
空き箱に季語の荷は重過ぎるな。


怠惰に過ごしたい休日、マクドナルドへ行って朝マックを食べる。
とことん怠惰を突き詰めようとセットにマフィン単品を追加したものの、帰りに寄ろうと思ったスーパーの開店時間まで30分もあり、延々公園等を散歩して過ごしてしまい実に健康的な結果に。
怠惰とは本来どうあるべきか、そもそもスーパーに寄るなんて建設的な事をする時点で資格なしなのではないか、スーパーの開店時間までマクドナルドでTwitterを眺めて過ごし、面倒だなと結局買い物に行かずに帰って寝るくらいが丁度良いんじゃなかろうかと思いつつ、その期待に沿う様な活躍?が出来そうもない事を悟ったので大人しく買い物をし、購入したブロッコリーを茹で、ゴミを片し、ジムに行って身体を動かし、朝食がファストフードだったのでランチに野菜をしっかり摂り、そこそこ用事を済ませるなどしっかり目の休日を過ごしてしまう。
己の才能の無さ、貧乏性とも言える「いやーこれくらいやっとかないと」的な義務感に中指突き立ててやりたく、反面お陰で平日の自分が救われもする事実を無下にする訳にもいかず、只々、生きるということの難しさに打ちひしがれて昼寝を試みるもコーヒーを飲み過ぎて30分も眠れず。この世は地獄か。
せめてもの反抗、爪痕を外注でもいいから残してやろうと言う一心でアマゾンプライムで「必殺!恐竜神父」という映画を観る。
恐竜に変身する能力を身に付けた神父が娼婦と組んで悪人を食い殺していくというストーリーなんだけど、絵に描いたようなB級作品で、無根拠にこっちを信頼してツッコミを丸投げしてくるスタイルの為、変な連帯感が生まれる70分。
小学生の頃、面白さに全てを賭けるタイプの鬱陶しいクラスメイトが憎めなかった人には向いている様な気がした。
VFXがまさかの字幕、ネットが存在しなかった時代の勘違い中国とそこにどうせ一緒でしょと混ぜられたニンジャ、就活でヤバい会社踏んだ時に見せられがちな仲の良さ自慢の自社紹介画面9分割スライド風のラブシーン、突然のスクワラ、突然の武田観柳、全く関係のない血の因縁、家系に伝わる伝説の武器、ニンジャが叫ぶゴリアテ、なのに何だかんだハウスシャークよりも随分と面白かったせいで文句の言えない感じ。
2回クラウドファンディングに失敗し、親の知り合いに資金を援助して貰ったという事実に相応しい謎の愛すべき感がある映画だった。
自分が欲し、しかし1日かけて手に入れられなかった怠惰さをたった70分で大幅に上回るこの作品をタツキ先生とそのファンに勧めたい。

何の話をしているんだろう。


またー。

睡眠ドラフト3位指名程度の潜在能力。

自分の睡眠の質が良いのか悪いのか気になって睡眠記録アプリをインストールした。寝ても疲れが取れないとか、全然眠れないとか、そんな事は全くないのだけれど、何となく質というものがあるとして自分はどんな睡眠パフォーマンスを毎夜披露しているのかが気になってインストールした。
睡眠にパフォーマンスという接続し辛い、ケーブルの種類違いませんかみたいな違和感がある響きよりも睡眠にパフォーマンスを求めるならもっと頑張るべき場面が日常的にあるんじゃないかと自分でも思うけれど、まあそれは別の機会に考えたいと思う。
兎に角、睡眠記録アプリをインストールして使っている。
使い方はアプリをオンにした状態で眠っているベッドの枕元に置いておくというもので、恐らく寝相の振動やらを感知して深い眠りに堕ちて(堕天使のように)いるかなとか、そういうのを調べルシファー(こう言うことを書くリスクをマジで考えた方が良い)仕組みなんだと思う。
結果としては、この1週間、全て95点以上の高スコアを叩き出していた。私の睡眠の質、良過ぎ・・・?
しかし常に高得点過ぎるとアプリそのものを中々信用出来ない。自分はもっと不健康な筈だ、と心のどこかに生き残っている「不健康がカッコイイ」という価値観が「素直に喜ぶ」という一番簡単な選択への道を阻む。
もっと近くに置けばスコアが下がるのではと3日目からどんどんスマホとの距離を詰めて眠るようになるも点数が全くブレない。
もしかして睡眠の才能があるのだろうか、入眠までの時間も異常に早いので睡眠のプロとしてやっていけるんじゃないだろうか、目標は野比のび太さんです、みたいな感じでやってけるんじゃないだろうかと思い始めている。
そんな中、たまたま上司宅へ泊めて頂く機会があり、リビングで寝させて貰ったんだけど、翌朝上司に「あまりに動かないから死んでるのかと思って俺が寝るまで何回も確認に来ちゃったし、夜中も死んでたらどうしようと思って確認に起きちゃったよ」と言われてしまった。
これにより、人を不安で起こしてしまうほど寝相が無い故の高スコアだった事が判明した。
寝相が無いという言葉はイマイチな気もするけれど、寝相が良いというと何らかの動きがあって然るべき(という先入観)なので「寝相が無い」という方が良いと判断した。寝相が無いというのは身体を痛めたり寝癖が局所的に酷くなりそうだったりしそうなので決して「良い」とも限らないのではないだろうか。
という事は不健康な一面とも取れる訳で、この要素でもって「不健康がカッコイイ」を体現した事にしたいと思う。あと炭水化物めっちゃ食べるとかでも体現していきたい。
これからも睡眠で高いスコアを出す優等生でありながら寝相が無いという裏の顔を併せ持つギャップが魅力のキャラとして毎晩眠っていきたいと思っている。


先日、服部フェスというアイドル主催のフェスに行った。
アイドルに限らず色々なアーティストが出演されえおり、普段聴かない音楽との出会いを確実に提供されまくって収穫の多い1日だった。
中でも楽しみにしていた大森靖子さんがコロナキャンセルになり、その代打で急遽出演されたグデイのパフォーマンスと楽曲の良さにビックリした。
あとはONIGAWARAの、昨今ジャニーズすらも薄まってきたJ-POPの濃度をMAXに引き上げる様な名曲連打っぷりに度肝を抜かれた。コーラスの「小型犬」というフレーズも素晴らしかった。
NaNoMoRaLというデュオ(と呼んで良いのかユニットなのか)もキャラ立ちがハッキリした男女混声ボーカルが面白かった。
個人的には大森靖子さんがキャンセルになった時点で絵恋ちゃんが目当てになっており、初めて目撃する絵恋ちゃんが想像以上に素敵で、ファンが完全に調教されていて、舞台装置としてのファン、共演者としてのファン像を垣間見た気がした。
他のアイドルの荒めのパフォーマンスが招いた事故に対してブチ切れる真面目さが伝わるエピソードをトークコーナーで聞きながら「でも自分の運営がライブ中にスマホ触ってて備品持ってこないのは怒らないんだ」と思ってしまい、人の怒りのポイントはやはり目の荒さが揃っていないザルのようなものなのだなと思うなどした。運営のやつはそれ込みの演出なのだろうけども。
それにしても絵恋ちゃんを観ていると「一緒に創り上げる」という言葉の意味がマジでそのまんまな感じがあって、ファンの人たちも達成感があって良かった。また観たい。
元々好きなアーティストや聴いてきた範囲から中々外側に出て行けなくなっていると自覚しているので、こういう機会はとても大切だなとしみじみ思いながら過ごした。


またー。

ウグイスと一緒に洗濯物を干そうツアー

朝の5時に洗濯機のタイマーに起こして貰って洗濯物を干して1日を始めるパターンを5日間ある平日のうち2回やっているんだけれど、急速に5時の空は明るさを増しており、裸足でベランダに出られる様になりつつもあり、あぁ、春が来てるんだなと思いながら干している。冬は朝も昼も夜もとにかく寒いので洗濯物を干すというのは苦行であり、かと言って部屋干しするのも好きじゃないので自分のせいなんだけど「この世の全てを呪う…けど跳ね返ってきたら嫌だからこの世の全てを呪うポーズだけな」と念押しした上でベランダでこの世の全てを呪うポーズを毎度繰り出していたんだけど、しばらくそんな日々とはおさらばな訳で平和で良い。
スパルタローカルズの「ウララ」という曲の歌詞に「ぬくい」という単語があって、それを春を感じた時と、タモリさんの博多の柔らかいうどんの話を思い出した時に連想する。春はぬくい。この温みだけでこの人生は生きるに値する。これはamazarashiだが。スピッツの「春の歌」も好きだ。
しかし平和と言ったものの、世の中は全然平和には程遠いし、苦々しい理不尽なものがどんどん身近さを増している様な気もしており、変に疲れる。
洗濯物を干しているとそもそも嫌いな家事No. 1なのもあってそんなことを考えてしまいがちなのだけれど、ここ数回はウグイスが鳴いており何だかウキウキしてしまう。
最初に気付いた時は滅茶苦茶下手くそだったのに、同じ個体かは解らないけれど今では上手に鳴くようになった。
上手になり過ぎて干している間中途切れなく歌うので段々と春の微笑ましさから駅のトイレのBGMみたいな機能的自然音にイメージが書き換えられてしまった。最悪な印象の上書きである。
本家が聴こえる距離で歌ってくれているのに、最寄りのイメージが駅のトイレな為にこんな事に。人間は罪深い。
先日、三十三間堂に行って沢山の千手観音像に圧倒されつつも頭の中では「仏ゾーン」のことを考えている自分がいた時もそんな事を思った。
いや三十三間堂そのものに感動した上で、その余談としての仏ゾーンなんだが、阿修羅像の足が裸足だったのでアシュラくんも確か…などと思ってしまった。
煩悩に塗れておる。こういうの心洗われるんじゃないのかと責めながら京大の近くでパフェを食べるなどした。バランスの崩れた飴と鞭よ。
脈絡がある様でないけど最近こんな感じ。

 

この世の全てを呪うポーズは素人が真似すると危険な為(恥ずかしい為)割愛させて頂く事とする。


またー。

真空ジェシカとミルクシェイクを。

マンションのエレベーターに乗ったら、途中の階で3歳くらいの男の子とお父さんが待ってて、男の子が大人用のトランクをうおおて押しながら乗って来て、あぁ、こんなささやかなチャレンジが一大アトラクションなの尊過ぎるなと成仏し掛かってたんだけど、達成感に溢れるミッションコンプリート顔でこっちを見上げながら「家から押してきたの!」て言うんでね、成仏通り越して転生しちゃって「えー凄いね」って返したらお父さんが滅茶苦茶冷静に「いやエレベーターの前までお父さんが押したよね?」ってツッコミ入れてて、大好きな真空ジェシカM-1決勝ネタでいう所の5秒秘書が罪人(つみんちゅ)の説明で帰っちゃうくだりレベルで笑っちゃったんだけど、未だにあのネタ好き過ぎて周りからしたら「まだ年末で止まってんの?」てなるよね、でも面白いんだから仕方ないじゃん。逸れてるから戻すけど、その可愛い男の子が嬉しそうに続けてこっちに「ねー」と話しかけてくれて、「どうしたの?」って聞いたら「これから車を運転してお婆ちゃん家にいくの」と教えてくれて、すかさずお父さんが「運転するのもお父さんだけどね」と訂正していて本当に真空ジェシカの漫才の掴み「言うとしたら僕〜」だった。
エレベーターを下りると子供が「いってきまーす!」とこちらに手を振ってくれるので「いってらっしゃい」と返したんだけど、道を歩きながら「あの2人は親子としての完成度が高過ぎるな…」と考え始めてしまい、幻だったらどうしようとか、友達親子を通り過ぎてビジネス親子だったらどうしようとか、ていうかビジネス親子って何だよどっちがどっちに金を払うシステムなの、どっちて子が親に払ってるパターンは有り得ないだろ、どういうシチュエーションでその方向でお金が流れるんだ、資本主義の闇と言うより自分の心の闇を資本主義のせいにしてしまっている気がする、自分はやはり弱い生き物だ…などと考えていたら電車を一本逃してしまって美容室の予約に遅刻してしまった。
申し訳ない。


映画「ガンパウダー・ミルクシェイク」を観て、なんっ、この、ええ?楽しみにはしてたけど、その、ここまで良いとは失礼ながら全く思ってなくて、本当にごめんなさい、好き!!!!となった。
殺し屋が子供を保護して組織を追われるというど真ん中な設定だけど主人公も仲間も敵も性格とビジュアルが凄く良かったり、図書館に武器を調達に行ったり、ダイナーでミルクシェイクを飲んだり、滅茶苦茶タランティーノ作品への愛が詳しくない僕から見ても解るくらい溢れていたりでたまらなかった。
T.M.Revolutionホワイトブレスに「タランティーノくらいレンタルしとかなきゃなんて殴られた記憶もロクにないくせに」というタランティーノレザボア・ドッグスやらキル・ビルの暴力性のキャッチーさを上手いこと表した最高の歌詞があるんだけど、なんというかそれを思い出しながら観た。
「顔のアップ」と聞いて思い浮かべるものの1.3倍くらいの至近距離でのアップが印象的に使われていて、目だけじゃなくて肌からも時間と感情を物語られている気がして凄く好きだった。
肉弾戦、銃撃戦、カーアクションと盛り沢山で、それを何とか切り抜けていく姿に胸が熱くなる。
無敵じゃなく、痛みとしっかり隣り合わせで、後悔や憎しみを繰り返しながらケリをつけんとする主人公がただでさえ格好良いのに衣装とシルエットがそれをポイント5倍にしてしまっているのマジでスギ薬局かよと思った。
個人的にはミシェル・ヨーさんが素敵過ぎて完全にノックアウトされてしまった。
登場から最後まで常に格好良いし、鎖の使い方が爆笑してしまう程にアツかった。中学生なら憧れて真似してしまっていたかも知れない。
お洒落で派手で面白そうだなーくらいのつもりで行ったら面白さでボッコボコにされる2時間だったの嬉しい誤算過ぎた。
規模の大きな爆破はないけど、アクションだけじゃなくて顔のアップの部分に対しても映画館の大きなスクリーンで観て欲しいと思える作品で、鑑賞後に勢いがついて帰りにお寿司をテイクアウトしてしまった。
ご馳走様でした。


またー。

巨大なシャトルで暮らす頭の切れる小学生。

小学生にとって遠足におやつを持っていく事は特別なイベントだった様に自分では記憶している。
好きなもの、気候に適したもの、食べやすいもの、定番化しており皆と共感を得られるものなど、可能であれば満遍なく、予算が許さない場合はどの部門を犠牲にするか(大にして気候に適したものや食べやすいものが切り捨てられ、後に現場で自分に不便をかける為、「現場の人間がどんな気持ちか、お偉いさんにはわかんねえんだよ!」みたいな気持ちになり過去の自分を呪う)を考え、その時々のスタメンを組んで挑んでいた様に思う。
プロ野球の監督はこれの凄い版の葛藤に常に苛まれているのか。しかもファンやマスコミは五月蝿いし、たまったもんじゃないな。
それはそうと、何故自分の遠足おやつデッキの事を思い返していたかと言うと、同僚の小学生のお子さんが遠足に「ばかうけ」の個別包装アソートパックを持って行っていた、という話を聞いて驚愕したからである。
自分のカードは味が数種類あれど商品としては1つ、それで多彩なデッキを組むクラスメイトたちにどうコミュニケートしていくのか大変心配になったものの、彼はアソートパックの物量と遠足おやつに不足しがちな塩気を武器にクラスメイトとおやつをトレードを繰り返す事により、結果誰よりも多くの種類のおやつを手に入れ食べきれずに帰ってきたという展開を聞いて心配が驚愕に変わった。
小学生ってそんな賢いの?それもうビジネスじゃない?本当に小学生?もしかして、新一…?
現役小学生時代の自分の価値観との乖離があまりに大きく、何となく嫌な手汗が出て、心臓の音が少し煩かった。
「俺、ばかうけのアソートパック買ってきた!」と宣言して場に出すと「ばかうけ?ウケる!」みたいな感じでトレードが成立するらしい(親が聞いた報告によると)んだけど、ばかうけとお笑い的なウケを繋いでやり取りが展開するという、ウケるという言葉が生活に浸透した今の時代の子供たちの面白さのボーダーがどこなのか解らなくて末恐ろしい。
末恐ろしいんだけど、うんこ漢字ドリルが流行る辺り彼らにとっても扱いやすい言葉が増えただけで実情は大差ないのかも知れない。
ともすれば同僚のお子さんがやたら賢い可能性もあり、もしかして新一…?とならざるを得ない次第である。


子供の頃を振り返ると言えば、フランスの解体される団地を舞台にした映画「ガガーリン」を観て、子供の頃に住んでいたマンションの管理人さんの事を思い出した。
物静かな方だったけれど、手際よく廊下の蛍光灯を交換したりポストの蝶番を直したりしているのを見かける度に「この人はこの建物の隅々まで知っていてカッコイイな」と感じていて、憧れを抱いていた。
ガガーリン」は団地や住人たちを愛しながらも、同時に誰よりも縋っていた主人公が解体作業が進む中で夢をなぞりながら懸命に生きる姿が印象的で、パリとは異なる生活文化と風景に触れる事が出来てとても良かった。
団地をロケットやコロニーの様に描く感覚は子供の頃に何度も味わった最寄りの非日常感で懐かしく、だけど映像になるとこんなに素晴らしいのかと新鮮な感動を貰える。
子供の頃の物の見方を思い起こされてしまう、キラキラしていて、でもしっかり苦い素敵な作品だった。

おかげで映画を観て以降、古いマンションや学校、病院や駅を見かける度にそれが宇宙船や秘密基地の様に思えてワクワクしてしまう。
現役でそんな事を考えていた頃よりも知識が増えただけ妄想の設定や描写が妙に細かくなっている。
何十年経ったんだろう、なんて思いながら書いている本日、誕生日で1つ歳を重ねてしまい、また一歩現役時代から遠ざかってしまった。
朝、家を出ようと腕時計をつけて文字盤を見るまで誕生日であることも完全に忘れており、自分自身への愛着だったり期待が薄まっていっている様な気がしてちょっと切なくなった。


読みたい本や観たい映画、聴きたい音楽がある生活が出来ているんだから楽しめていない訳では決してないんだという自覚もちゃんとあるので、もっとこう、そういうのを自分でもっと自分にアピールして良いじゃんと思える時間を増やせたらな、と思う次第である。
まあ無理な体勢でしゃがんでスーツのお尻破れる絵に描いたようなスタートダッシュ失敗感なんだが、「タコピーの原罪」の上巻と同じ日に生まれた人間としてはまだ恵まれてる方な気がしているよ。


またー。