性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

概念としての懐かしのファストフードとお爺ちゃんの飴について。

最近、アマゾンプライムビデオで配信されている「アダムの80sを食べつくせ!」という、80年代のアメリカで人気を博した若くは斬新だけど商業的に失敗してしまったファストフードやお菓子、商品やサービスについてを再現して体験することで振り返っていく番組を観ている。

その中でドミノピザが数ヶ月だけ提供したサービスとして「朝食用のピザのデリバリー」というのが紹介されていて面白かった。

カルボナーラ的な重すぎないピザやベリーを使った現在のデザートピザの始祖のような商品を朝に新聞やコーヒーと合わせてドミノピザが持つ自慢の配送網を駆使してデリバリーするというものだったんだけど、朝食を摂りたい時間帯はアメリカも日本と同じように皆ある程度決まっている為に同じ時間帯に注文が集中するなどの問題が解決できずに撤退した、という話だった。

普通に考えればそりゃそうやろ、というものだけれど「まぁやれるんじゃないかな、やってみようぜ」的な発想で動ける豊かさと元気があったのだなぁと感心したものの、それ以上に感心したのがサラッと紹介されたお客側からの「朝、シャワーを浴びている間に届いて困る」というコメントが一番衝撃的だった。

いや頼んだ癖に届く予定時刻にシャワー浴びてるのはそっちの都合なのにそんな事を言っても良いんだ、という衝撃である。

真似出来ないというか、羨ましいほどに主人公気質というか。

お金は払っているけれど滞りなく、自分だけでなく相手に不快にさせたくないとつい思ってしまうので、宅配便の時間指定をしようものならトイレに行くのもちょっと気にしながら、洗濯物を干しつつ待つ時はインターホンの呼び出し音が聞こえるように窓全開で作業をしてしまう自分には到底成せることのない眩いばかりのスポットライトを平然と浴びている(しかも無意識かつ無自覚に)様にクラクラする。羨ましい。

いや、そういうクレームを入れてみたいとかそんなんじゃなくて、心構えの話というか。

もう少しどっしり構えて大人の余裕ってやつを会得、体現したいものだなとほんのりした敗北感をたった一文、本筋ですら触れられないテロップから喰らってしまって忙しかった。

日本のバブル期もこんな感じだったのかなぁと思いながら観ていて、ここから考えると世界中マジで元気ってなくなっていってるんだなと感じつつ、だからって「昔は良かった」とか知らないし意味不明だし、昔が良いならそのスマホ使うの辞めたらいいんじゃないですか?とか思ってしまうので、そんな刺々せんでもと我ながら反省反省、精進精進の日々ですわ(フワちゃんの口癖)

何にしてもアダムさんの食べっぷりと茶目っけが程良くて可愛らしいので何でも美味しそうに見えてしまう良い番組だと思う。

出てくる食べ物が割とドッシリしているので飯テロにしてはカロリー過多で食欲をそこまで刺激しないのもまた良い感じ(効果には個人差があります)

この番組は元々はプライムオリジナルドラマ「THE  POWER」を観ていて何故か辿り着いたんだけど、「THE  POWER」も凄く面白かったので海外ドラマ特有のバイオレンスさと下品さが大丈夫な人にはオススメしたい。

同時多発的に女性に電気を発生させ、操る器官が備わったことによる世界情勢の移り変わりを描いたドラマで、現在シーズン1が配信されている。

根強く残る男尊女卑(社会的、宗教的)が覆る力に目覚めた女性たちの存在が既存権益貪ってたり、単純に下駄はいて生活していることに無自覚な男性たちへ与える影響だったり、共存するための動きだったりが丁寧に、かなりパワフルに描かれているので興味深く観ている。

普段暮らしていてもやっぱりまだまだ自分が男性としてかなり優位な下駄を履かせてもらった影響があるよなという場面は多いし、平等ということはこれが半分になっても良いから変な事だよって言えるようになれたのはここ10年くらいかも知れないなとか、そういう情けなさを登場人物が見せるので追体験というか再認識しながら観れるのも良かったかも知れない。単純にストーリーも面白いのでシーズン2を楽しみにしている。

ただ、キツめな描写が多いのでそういうのが苦手な方は避けても良いかも知れない。

 

それはそうと「君たちはどう生きるか」を観てきたんだけど、何というか、こう、教えめいた作品だったなぁというのが最初に出てきてしまう映画だった。

エンドロールを眺めながら、「お爺ちゃんがくれた不味くはないんだけどそんな美味しく感じない飴みたいな映画だったな」と感じたんだけど、何だか「難しい」「わからない」「つまらない」みたいな感想ばかりなのもキツいし、「それが芸術」みたいなスタンスはそれ以上にキツいなと思って、ネットで感想を書くのがちょっと難しいなと思っている。

おじいちゃんが自分の思い出を振り返りながら、後悔だったり、見つけた大切なものを教えつつ「でも最後は自分で決めるんだよ」と説いてくれるような時間だったと僕は理解しているんだけど、そういうのってまぁそんな素直に聞けないというか、完全にど真ん中で受け止めて「よーし!僕はこう生きるぞ!」なんてならないというか。そういう意味で「不味くはないけどそんなに美味しくない飴」っぽいなと。

うちのお爺ちゃんは黒糖の飴をよくくれて、今でこそ好きなんだけど子供の頃はそんなに嬉しいとは思っていなかったし、お爺ちゃんの思い出話についてもそんな感じで聞いていた気がする。捻くれた孫で申し訳ないけども。

多分、自分の親の世代とかの方が家柄とか家業に縛られたところがあったと思うし、刺さる面積が広いんじゃないかと思った。

真面目な優等生として暮らすことが「いい子」ではあるけれどどれだけ苦しいことか、正直でいるということは黒い部分と向き合う必要が生じる訳で、その「いい子」で得られているものとも対峙しなきゃいけないんだよなとか、そういう部分が考えさせられた。

ただ夢の様に唐突に進んでいく旅の中で「心を開いて信用する」みたいな場面が結構唐突で、きっかけどこにあった?と戸惑っているうちに次のステージへみたいな、バックパッカーがハイになってガバガバなノリになってく風に見えてしまう場面もあって、それもまぁ素直に、自由にということを怠ってきた自分が生じさせる違和感なのかなと観て一週間経った今なら思えるので、観た内容を反芻することでタイトルに対する自分の回答を見つけていく、かなり大仕掛け、余白が多めの話だったなと思う次第。

そもそも「どう生きるか問われても、どう生きてきたかも定かじゃないんですが・・・」という自分からすると「君たちはどう生きるか」に対しては「ちょっと考えながらやっていきますわ」くらいの回答しか今のところ出来ないんだけど、貰った飴の味を思い出しながら気持ちの向く方にやっていけたらいいなと思いますわ。

 

またー。