性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

見えない肌着問題。

ネプリーグのネタとしてネプチューンの名倉さんが「ごめん!◯◯!」と解答が複数ある問題で、簡単な答えしか思いつかなかった時の言い回しがネットに転がっているが、実際に目撃したことはあるようで無い気がしており、いつか観てみたいと密かな、意味不明な願望を抱いていた。
そんな中、遂にその瞬間に立ち会った。
それは休日の午後に再放送されているネプリーグをボンヤリ眺めていた時のことである。
「ドラマ『ごくせん』シリーズ、歴代メイン不良グループとして出演した俳優5人答えよ」という問題でトップバッターの名倉さんが暫く考え「ごめん!ウエンツ瑛士!!」と回答して間違えてしまったのである。
ネットで観たやつだ!!と思う中、スタジオは「さっきのごめんは『簡単なのいってごめん』なのか『間違えるかもごめん』なのかどっちだったの!?」と大ウケしていた。
確かにどっちなんだろう?と思っていたら目が覚めた。
夢だった。
いつか観たいと思っていた場面を捏造して夢にみるな。ポケモンが欲しくて何度もプレゼントしてもらえる夢をみた子供の頃から変わっていなさ過ぎて愕然とする。
それにしても妙にリアルな問題だったな、ウエンツさん本当にメイン不良グループで出演されてないのかなと調べたら出てないっぽい。
正誤までカバーした問題を捏造してまで見たい場面だったんだろうか。だったら毎週リアタイして楽しめよ。
人間の想像力を遺憾無く発揮。まさかこんな所で。
我ながら想像すらしてなかったよ。


それはそうと肌着が捨てられない。
くたびれて、首元が擦り切れ始めても尚捨てられない。
穴が開いて初めて捨てることを意識し始めるんだけれど、今度はこの穴が親指の爪くらいの大きさになったら捨てるぞと意気込むに留まり、よくわからない粘り強さを発揮してしまう。求められていない忍耐。もっと求められていた場面が沢山あったろうに。
ダメージ肌着と呼び始めて、「何かそういうファッションのジャンルなんで」と自分に言い聞かせるに至る。表層に出てくるデニムに許されて出てこない肌着に許されない道理は無いのかどうか定かで無いのでビームスやらのプレスの方が何かしらの提言が欲しい。他力本願ではあるけれど、そういうのがあればこちらも意識が変わるというものである。立派な自己啓発だ。
とは言え、表層バッチリお洒落なアパレル関係者の中にもダメージ肌着を愛用している方がいるかも知れない。「お洒落は見えない所から」と社訓の様に謳われる世界に身を置きながら内にはダメージ肌着を秘めている。背徳感が凄そう。迫害されないか心配になる。
原因はどこにあるんだろうと考えてみると、考えるまでもなく肌着は表に出てこない、人目に触れない装備品だからという点に行き着く。
「肌着アウターの日」みたいに肌着をアウターとして着用することを是とする日が無い限り、こちらは油断してダメージ肌着を着用し続けるだろう。
加えて、これが何より大きいのだが着古した肌着の方が着心地が良いという理由がある。
身体に馴染んでいるというか、いつか皮膚と同化してしまうんじゃないかというくらいのしっくりさで存在感を消して快適さを付与するという字面的にややこしいアピールを見せるんである。
肌着や下着を年始に買い替えるという人をたまに見掛けるが、そういう方法で一新するのがダメージ肌着という愛すべきモンスターを生み出さない最適な方法なのかも知れない。
そもそも肌着がダメージでボロボロであって困るのか、という論点もあるが、こういうのが拗れて論争、闘争、戦争になっていくのでこの辺りで留めておきたいと思う。僕は肌着で死にたく無い。


体感型のサービスとしてVRが導入される様になって暫く経つ中で、吸引力だの何だのがただ一つ落ちないと豪語するダイソンがVRでドライヤーなどの効果を視覚的に体感出来るショールームをオープンしたというニュースを見かけた。
内容的に、「髪が長い人がダイソンのドライヤーで乾かすとこんなに良いんですよ」と色やデータを表示する事で坊主頭の人にも分かる様に説明してくれるらしく、該当者は元より、その問題を問題とも思っていない家族や同居人に「こんなに違うなら買うか」と思って貰えるのに大変役立ちそうで素晴らしいなと思った。
話せば分かるなどと言う人も多いかも知れないけれど、本当にそうだろうか。「えー高いじゃんこっちで良くない?」みたいな事を述べられ、本当に欲しかったものに若干スペックが劣る製品に妥協させられた経験は無いだろうか。
僕はあるので「知らないだけで本当はこんだけ大変なんだぞ」と言ってくれて、そんなもんなんだと思わせてくれるジャブは多い方が良い。
タミヤミニ四駆のパーツ、ミズノのバット、ナイキのランニングシューズなどなどなどなど。
妥協しておいて良かった、みたいなものも多々あるのは承知でやっぱり一番コレだと思っているものを手に入れる事が大切なんじゃないかと思わずにはいられない。
ダイソンのVRがどうか肯定的に広まっていきますよう。


またー。

ソドムとゴモラでボランティア。

Aマッソの漫才の中で、世の中は不公平というものの喩えに「ボランティアをしている人にも口内炎が出来る」という内容のフレーズがあり、善い事をしている人が口内炎なんて小さめな地獄に見舞われるのは悲しいので出来ないで健やかに暮らせていて欲しいなぁ、と感じて響きの穏やかさと反比例するかの様に強烈で印象に残った。
不公平さを考えた時に器の小さい人間なのでどうしても自分主体になってしまい、カラオケにハヌマーンとサイサリが入っていない事が真っ先に思い浮かぶ。カラオケという最大限にこちらを甘やかしてくれる場で、遠慮なく好きなアーティストを、それも凹んでいる時に自分を立て直してくれるアーティストの曲が歌いたいという甘えられる故に要求が過剰になっている系の不公平であるが、LiSAの曲を泣きながら歌っている人などを見かけると、この人にはそうやって歌える曲があるのだなぁ、不公平だなぁなどと思ってしまう。
カラオケもお金を掛けて提供するのだから基準があるのは当たり前であるし、それを責める気持ちなど毛頭ないんだけど、そんな事をたまに思ってしまう。


堕落した住民に神が怒り、滅ぼされてしまった街の伝承でお馴染みの旧約聖書収録作品(作品?)「ソドムとゴモラ」が実際に隕石の爆発で破壊された古代都市をモチーフに生まれている可能性がある、というニュースを読んで、何か旧約とか新約って保険の分類みたいだな、年末調整早めに出さなきゃなと思ったんだけど、それ以上に「実際に起きた事が伝承になりがち」を改めて実感した。
事実は小説よりも奇なりというか、日本の昔話なんかも割と誕生の背景を探っていくとルーツやらモチーフがある訳で、要するに超常的な現象でなくとも自分が起こした何らかが長い年月を経て伝承のモチーフになってしまう事があるんじゃないかと思って、自分の人生を伝承ビギナーなりに伝承ワナビー目線で振り返ってみたら「マーブルチョコを鼻に詰めて取れなくなって医者に連れて行かれ、病院にくるほど大変な事をしてしまったからもう自分は助からないんだと大泣きしたらその熱で溶けて茶色い鼻水が出た事件」と「何度言われてもマジックを片付けないので玄関に軟禁され、謝っても許して貰えないので自力で脱出しないと死ぬまでこのままだと赤子だった妹の落下防止に設置されていたベニヤ板を泣きながら殴り割った事件」が真っ先に思い浮かんで、何というか幼い癖に随分と自業自得なのに悲観的だなと恥ずかしくなってしまった。
とは言え、自分の行いが時を経て伝承や神話になる可能性は記録さえ上手く遺す事が出来れば0ではない。もしかしたら世の自伝を自費出版で書く老人はコレを狙っているんだろうか。虎視眈々、老人よ神話になれ。
数千年の後に遺る保管方法を考えるという視点に彼らが立てていない事は間違いないが、執筆という大半の人間が為し得ない大きな一歩を踏み出せているのも事実である。スゲーよ自伝老人倶楽部。
僕の場合は彼らと比べると随分と先は長いが、今後やらかしてしまっても「あぁ、これで俺も伝承になってしまうな」とか「神話間違いなしじゃん」とかしばらくの間は思ってしまうだろうから、何というかメンタルのコントロールに一役買いそうだなと見込んでいる。


伝承というか伝統というか、貴婦人がお茶会で催すお茶の葉占いなるものがあると少し前に書いた。
ティーカップに残ったお茶の葉が自然と作り出した模様により運勢が占えるというもので、ハリーポッターの世界では占学の最初の授業で登場し、最初のジャブの癖にハリーに超ヤバい運命が迫っとるでとアピる事により後に控えていた暗示たちのハードルをぶち上げてしまった事で有名なものである。
漫才の最初のボケが一番良かった、みたいな状況を避けねばならなくなった後続の暗示たちの気持ちたるや。
そのお茶の葉占いの早見表をモチーフにしたコースターを先日訪れたハリーポッター展の物販で購入したんであるが、現代においてお茶の葉がカップに模様を作る状況というのは一向に訪れない。
ティーバッグを基本的に使っているからなんだけど、それ以前に普段のファーストチョイスがカフェオレなので紅茶の葉占いのコースターに当然の様にカフェオレが鎮座しており、完全に日常の風景になっている。
伝統、文化を継承していくことの難しさを感じる。
その割に、カフェオレばかりの自分が紅茶の葉占いに強い親近感を抱いている。
何故かを考えてみたところ、納豆占い歴が長いからではないかという結論に至った。
納豆占いとは、朝食に食べる納豆のフィルムについた豆の数や位置からその日の運勢を占うもので、自分が思いつきでやり続けているだけで特に長い歴史も明確な基準もないが、何となくやめられないまま続けている占いである。
フィルムを剥がして何となく「今日は良い感じかも知れない」とか「今日は何かあるかも知れない、気をつけよう」とか勝手に思っている。
そんなものと並べて親近感を抱かれても迷惑かも知れないけれど、最近は豆の上にフィルムがかかっていないタイプも見られ、紅茶の葉占いと同様に廃れつつあるという共通項もあり、仲間であると自負している。
ハリーポッターに紅茶の葉占いの代わりに納豆占いが登場し、ハリーが剥がしたフィルムについた豆が描く模様を見て先生が「とんでもない不幸が!!!」とおったまげる可能性も決してゼロではなかったんじゃないかと思う時、運命の悪戯というフレーズが僕の頭の中でニヤリと笑うんである。
勘違いというやつである。


またー。

火柱活動日誌。

大きな公園を散歩している間、老若男女が綺麗なドングリや松ぼっくりを情熱的に探し求め、拾って一喜一憂していた。
あまりに皆さん熱心なので、自分が知らないだけでドングリや松ぼっくりが通貨として信用され始めているんだろうか、時代は繰り返すと言うけれど、もしや文化意外にも貝殻が通貨だった頃のリバイバル的な現象が起きているんだろうか、などと考えながら長い距離を歩いた。
それはそうと最近、散歩などをしていると隔週くらいの頻度で毎回違う場所にも関わらず鬼滅の刃の煉獄さんのコスプレをした子供と遭遇する。
煉獄さんは足が凄く速く、人間離れした、鍛え上げられ至高の領域に近いと上弦の鬼が称賛する程の方なので同一人物なのかも知れないが、現実的に考えると煉獄さんが全国的に増殖しているんだと思う。
基本インドアな自分がここまで出くわすくらいなので、恐らく車のように教習所があり、そこで仮免を取得し、煉獄免許センターみたいなところで本免許を取得した者が晴れて煉獄さんとして各地に出動しているのかも知れない。
小さくても炎柱であるが、もしや取得して日の浅い内は見習いの意味も込めて「火柱」と呼ばれているかも知れない。
彼等が炎柱として認められるまで煉獄さんとして活動を続けてくれると世の中はもっと平和になるかも知れないが、各地で原作の様な最期を遂げられると悲しいので各々良い感じのストーリーを描いて伸び伸びと炎の呼吸をかましてくれたらと思う。


そう言えばこの前、小学生の男の子が2人で自転車に乗りながら「鬼滅の刃には何の柱がいるか」を確認し合っていたんだけど「霞柱」と「恋柱」が出てこなくて、霞柱に関しては「霞」という字が難しいのかなとか、小学生は無表情だったり感情表現が薄めなキャラクターはあんまり推さないのかな俺たちオタクはそういうキャラ大好きなんだがとか思った訳だけど、恋柱に関しては単純に「まだこの子たちは恋を知らないのかなぁ」と思って老害過ぎてアスファルトに額を打ちつけたい気持ちになった。
恋という言葉が照れ臭くて口に出来なかった可能性について考えるなどもしてしまったので大変に申し訳ない。本当に邪推というやつである。
挙句、何故か刃牙範馬勇次郎が息子に「色を知る年齢(とし)か!!」という場面を思い出してしまって最悪だった。こんの不器用親父。さっさと子離れしろ。
自分自身は最悪だったけど、せめて少しでも彼らの将来が彼らにとってより良いものである様、まあそもそも自分の暮らしが良くなる様に選挙の投票に行ったので何とかそれで大目に見てほしいと思う。

 

またー。

亀は食べちゃダメなこと、とりもちのこと。

カラオケでMONGOL800の「小さな恋のうた」を人が歌っているのが聴こえてきて、アルバイト先の店内放送で「亀は食べない俺たちの約束」みたいなフレーズの曲が滅茶苦茶ツボに入って「いやいやそんな曲ないって!」と言いながらも事あるごとに「亀は?」と問いかけて「食べない!」とか返す謎のやり取りがスタッフ間で流行した事を思い出し、全員が当時空耳アワー的な捉え方をしていたけど実際そんな曲あるのかなと15年以上の時を経た今になって初めて調べてみたら、普通に「亀」という曲があって「亀は食べちゃダメ俺たちの約束」と歌われており、ただ歌詞通りに拾って空耳的な盛り上がりをしてしまっていた事が2021年に判明する運びとなった。MONGOL800に申し訳ない気持ちになると共に、バイト先はとっくに閉店しており、連絡を取っている当時のスタッフもいないので誰にも「あれ、本当にそう歌ってたんですよ!」と言えない虚しさをせめてここに記す事で緩和したい。

しかし本当に歌っていたと解るとMONGOL800なら歌ってそうだなぁと思えるから不思議である。己の想像力が彼らによって少し拡張された気がする。
ネタにしていた全員が各々のタイミングでこの真実に辿り着いていて欲しい。
そう願わずにはいられなかった。


それはそうと、mugnyさんというイラストレーターの方がいて、その人の描く「とりもち」というキャラクターと、その穏やかな暮らしがとても好きで家に沢山ぬいぐるみがあったり、職場でカレンダーを愛用していたりするんだけれど、この度、個展が開催されるとの事で調子に乗ってコロナ対策の抽選入場に応募し、まさかの当選で行ってきた。

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僕が考えるとりもちの良さは、のんびりしたモチモチした生き物が自分と違いのない日常に楽しみを見出してワクワクしていたり、食べ物を本当に美味しそうに食べてくれる所にあって、自分が目を向ける余裕の無もなく当たり前判定をしていたものをもう一度眺めてみるキッカケをくれる存在になってくれている。
とりもちのお陰で欲に忠実にお菓子を買ってみたり、お酒を飲んでみたり、映画を観てみたりする機会が増えて自分の人間っぽさに磨きが掛かった気がする。
疲れてベッドに横になった時も、ぼーっと、とじーっとの間の様な何とも言えない表情のぬいぐるみと目があって頭を空っぽにして眠ることが出来ている気もする。
あと以前の個展で阪神タイガースのユニフォームを着たとりもちのぬいぐるみの背中に大好きな大山選手の背番号を描いて貰ってからというもの、二軍落ちも経験していた大山選手が4番に定着し、ホームラン王を争ったり、キャプテンになったりと、彼の頑張りに他ならないとしても凄くご利益がある気がしていて、優勝には届かずとも毎年良い所までいけるのに多少貢献してくれてるんじゃないかと勝手に胸を張っていたりもする。
そんな自身の福利厚生?に大いに威力を発揮してくれているとりもちの原画展で、穏やかな暮らしを楽しむとりもちと仲間たちを観て、やっぱりいいなぁと穏やかな気持ちになった。
展示されている原画の販売もされており、目移りし過ぎて目が渇き、考え過ぎて頭がクラクラしながら「お迎えしたい作品を1つ選ぶというのはこんなに過酷な事か」と世界観が刃牙の様になってしまった。地下闘技場編と死刑囚編が好きで、好きなキャラクターはジャック・ハンマーですが、好きなシーンは手の中に真空を作るところでよろしくお願いします。
そんな感じで何とか作品を選んでお迎えしたんだけど、その過程を経て、同じように誰かにお迎えされた証のシールが貼ってある作品を眺めるとまた面白さがあった。
どれも素敵な作品なんだけど、シールを通して、誰かの心に一番響いたのはどんな部分なんだろうと色々と対話に近い妄想が出来て凄く良かった。
展示期間の最後の方にまた行けたらもっと楽しめる気がするし、うちにお迎えする作品を改めて眺められるのも贅沢でいいよなと企んでいる。
何やかんや望まぬ忙しさに当てられているのでどうなる事やら、ではあるけれど。行けたらいいな。

- upcoming

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何にしても原画をお迎えする、というのは勇気のいることで、変な汗をかくものの、いつかの青柳カヲルさんの個展で原画をお迎えせんと青柳さんに話しかけるというイベントを乗り越えた事が莫大な経験値となった気はしている。
誰かが自分を変えたと感じることはあんまりないけど、何かこういう事なのかなぁとしみじみ感じた。

 

またー。

映画「ひらいて」の雑感(※ネタバレ有り)

映画「ひらいて」を観た感想をネタバレを含めて書きたい。

そんな事を言って突然書き始めてしまうと内容が目に入ってしまって滅茶苦茶ショックを受けてしまう方がいるかも知れないのでスクロール避けにまず自分の原作の綿矢りささんの認識ついて書いておこうと思う。

特別な出会いではないのでネタバレを踏みたくない方は読まずにチェンソーマンを読もう。
「ひらいて」をこれから観るにあたって絶対に役に立つし、そもそもチェンソーマンは面白いんだから。


僕と綿矢さんの出会いはデビュー作の「インストール」で、僕も綿矢さんも高校生だった。
とんでもなく不器用で妙に気持ちの悪い大人を生み出す先輩だな…と漫画研究部の女性の先輩たちがこぞって最遊記のポエム付きの際どいイラストを文化祭の配布冊子にねじ込んで一般生徒及び市民にばら撒いていたのを思い出し、その凄い版が登場したんだなくらいの認識だった。
当校においては、そのテロとも言える爆撃配布芸が翌年以降、文化祭における作品の事前提出及び検閲を引き起こし、演劇部は台本を、軽音部は演奏曲目を提出せねばならん事態に発展していく訳であるが、よもやそんな厳格なルールの発端が漫画研究部という目立たない部によりもたらされたものとは思わず、反抗的な抗議の目を向けられた先生方はなんというか可哀想であった事をよく覚えている。
綿矢さんは、僕にとってその「アカンで」という隙間を文学で滅茶苦茶に上手く抜け切った先輩という第一印象だった。
綿矢さんの書くズレて戻せなくなってしまった大人たちを「いやいや、大人ってこんなにポンコツではなくない?」と思っていた僕だけれど、受験生になり、大学生になり、社会人になるにつれて大人の権利の自由度の割に首も回らなくなってしまう程の不自由さ、しかも子供の頃から思ったほど成長していないという絶望感をあらゆる場面から感じ、そうして初めて「綿矢さんは本当に鋭くて、しかもそれをきちんと言葉で表現できるヤベェ人だったんだ」という当然の事を思い知った。
ずっと教えてくれてたのに随分と遠回りしてしまったなぁ、と少し恥ずかしくなってしまった。
綿矢さんは外力に強いられ、自主的にも強いる様になってしまった人間(年齢性別不問)の歪みを込めつつも普通に面白く読めてしまう物語として広げてくれるので、そういう各種の「呪い」に縁の薄い人は何も気付かずスキップしながら通り抜けられるのに敏感な人にとっては何でこんなに打ちのめされねばならんのかという地雷原と化す、「ある方向に感性を研いだ人間だけをボコボコにする作品」を何度も何度も高純度で生み出してくれるかけがえの無い存在である。
何度身構えても無事にボコボコにされている自分がそう言いながらも綿矢さんが好きなのも、何というか綿矢さんの作品の登場人物に自分のダメな部分を重ねて恥ずかしさでのたうち回る事で社会に出て行ける部分が多少なりあるからではないかと思っている。


以上がスクロール避けの雑談であり、予想外に長くなってしまった上に割と「ひらいて」の感想としても機能してしまう内容になってしまったんだけどオタクは話し出すと段々早口になって止まらなくなってしまうのでこのまま続けようと思う。
オタクと車は急に止まれないんである。
などと言いながらまず原作を手元に置きながら未読ということを先に謝っておきたい。
何かあまりに喰らいそう過ぎて、もう少し生活が落ち着いたら…を繰り返している内に映画が公開になってしまった。
なので雑感は全て映画に対してという事をご了承頂ければと思うし、解釈違いがあっても個人の感想なのであんまり怒らないで欲しいと思う。
以下、宣言通りネタバレを解禁とさせて頂く。


「ひらいて」を乱暴に説明してしまうと、幸せそうに見えるけどちゃんと破綻している家庭の愛という女子高生が、目に見えて破綻している家庭のたとえというクラスメイトに恋をして、彼と大き過ぎる制約のもと破綻しない事を心情とする様な家庭で育った恋人の美雪との間に割って入ろう、というものだと思う。
(以下、劇中で互いを呼ぶ際にちゃん及び君付けで呼んでいるのでそれに倣う)
清い、何時代の文学だよくらいの交際をしているたとえ君と美雪ちゃんに自分の願望を満たさんと突っ込んできて引っ掻き回す当たり屋の様な愛ちゃんという構図が成り立つものの、先述の通り皆それぞれ難しい環境にいるので感情的にどんどん複雑になっていくのが印象的だった。

時系列に上手くまとめられないのでそれぞれについて簡単に感じた事をまとめたい。


【愛ちゃんの事】
愛ちゃんは、とにかく自分の思い通りにしたいという強い願望と行動力がある人物で、その為に自身を磨く事に余念が無い。
それは単身赴任という仕事を盾に家に寄り付かない父親(不倫しているのか愛情が無いのかは不明)へ食べきれない程の手作りのお菓子を送り続ける母親という両親を見て育った事が大きいのではないだろうか。
自分は絶対にこんな風にはならない、という強い思いが成績も容姿も人間関係もどんどん登っていかなければ、しかも各ステージで最高到達点ではなく1番になれる場所を選んで手に入れ続けなければ、という姿勢を取らせているように感じる。(塾のクラスは上位なのに進路選択でも無理せず推薦を選んでいる、など)
その愛ちゃんが恋人として絶対に手に入れたいと願った相手がたとえ君だった訳で、そのたとえ君がどう頑張っても自分を全く見てくれない事で、「父の視界に入れない母」という憐れんでいた存在に自分がなっているという自覚が彼女の積み上げてきた努力とバランスを失わせたのではないかと感じた。
ただ、愛ちゃんがたとえ君や美雪ちゃんに責められた様な凶暴で身勝手な人間なのかと言われると全然そんな風には思えなくて、愛ちゃんは割と明暗共に抑えてバランスを保っているのに、感情の蓋を開ける音と動作が大きくなってしまうせいでさも自由気ままで何も我慢していない様な見方をされてしまうんだろうなと感じる。
彼女からすると緩くてふわふわして無知に見えているミカちゃんが自分を心配してくれている事にすら苛立ち、セフレと罵った場面で、ミカちゃんが「セフレだったらバカだと思う?」と悲しそうに問いかける姿にハッとして「思わないよ、ごめんね」と返したシーンが「これまでと同じ愛ちゃん」に戻ってこれる最後のタイミングだったんじゃないかと僕は思っていて、ここが今作の中で1番好きだ。これは何回見ても変わらないと思う。
絶対に手に入れたいたとえ君だけでなく、美雪からも飼い犬に手を噛まれたくらいズドンと咎められ、ズルズルガードを下げて打たれっぱなしになり、毎朝手入れしていた髪も爪もボロボロになる程に追い詰められてしまうのは観ていて本当に辛かった。
ただ、我慢してやり過ごす人生を多少なり送ってきた側の自分が実際にあの中にいたら愛ちゃんを「お前は良いよな」的な目でみてしまっただろうなとも思うので自己嫌悪もあり、余計に辛くなってしまった。
その愛ちゃんがたとえ君と美雪ちゃんが「容認してくれるはずがないと解っていても直視出来なかった」たとえ父の無理解と、その傲慢な憤りに対するカウンターもぶちかまして、2人の夢の世界を守った挙句に砂被り席でオールナイト観戦させられるというのは、前世で小国を滅ぼしたくらいの罪がないとあんまりにあんまりなんじゃないかと思ってしまった。
それにしても、愛という名前のキャラクターが恋に固執して愛に辿り着けないのは中々凄い重みだ。
そういう解釈をしているので主題歌の「恋がしたい、恋がしたい、恋がしたい…最悪」という終わり方が僕にとっては愛ちゃんの言葉に聞こえる。あくまで僕の場合は。


【たとえ君の事】
たとえ君は、母性に飢えて俺の理想の聖母を探す旅に出た結果美雪ちゃんという存在に出会った、絶対に誰にも渡さないという凶暴性が印象的だった。
愛ちゃんに投げつけた「美雪を見つけた時の俺の気持ちがお前にわかるか?」的なセリフがあんまりにたとえ君のヤバさを一言に凝縮している様で吐きそうだった。これがオーラの力って奴?
絵に描いたようなクズの父親から逃れる為、必死に勉強をして東京へ進学し、美雪ちゃんと幸せに暮らすことを夢みるというよりそれしか自分にはストーリーがありません、という突っ走り方がセカイ系ラノベみたいで滅茶苦茶10代男子って気がして、年相応感に家庭環境故の凶暴さが加わってとんでもねえキャラクターだと思った。
東京?で暮らす母親と連絡を取り合っている事が明らかになった瞬間に「あ、これは母親が自分をクズの父親の元に置いて出て行ったことを認めたくなくて勘定に入れてねえな」と思ってしまってたとえ君が結構無理になってしまった。
どんなにクズでも一応育てた父親とたまの連絡で心地よい言葉をくれる母親。凄いテンプレにスーパーヒトシくん人形で正解を掻っ攫う的な。
全然人と目を合わせない、極力外部との接点を断つことで自分の内面を出さないように生きているた彼にとって、ガンガン目を合わせてパワーで押して行こうという愛ちゃんは脅威だったと思うし、自分の聖母である美雪ちゃんを変えられてしまう恐怖が彼女に対するリアクションに出ていたのではないかと感じた。

また愛ちゃんや父親を侵略者扱いする事で、父親が自分を逃さんとする姿が美雪ちゃんを理想の外に出さない様にしている自分と重なってしまう事を認めたくなかったのかな、とか。
最後に愛ちゃんの頬を両手で包んでまっすぐ彼女を見た場面は、初めて愛ちゃんの存在を認めた、目があった瞬間だったと思うんだけど、それが「お前は俺と似てると認める」という意味なのか「お前の今の目、悪くねえぜ」なのか「親父ぶん殴ってくれてありがとうな」なのか何なのか解らないけど、ほんの少し前進したのではと思いつつ結局それも卒業だからだよなぁとか思うと切なさがある。このシーンのたとえ君の気持ちが自分なりに解釈出来なかったのは自分の程度が知れるというか、複数回観るフラグなのかなと感じている。削られる面積が大き過ぎて暫くは無理だけども。

 


【美雪ちゃんの事】
美雪ちゃんは、自分の糖尿病が大前提となって、破綻しない事を心情とする事で温かな家庭が出来ており、守られていると信じている。
その制約を両親よりも彼女本人が何倍も大きいものであると思い込んでいる事が彼女の献身的な性格を培っていると同時に、自分はいいから、という自己犠牲にまで及んでいるのはご両親からすると中々に難しいだろうなと感じる。
自由にさせてあげたいけど、あまりに狭い世界で生きてきた、外の世界を知らない娘をどう諭せば、という中で愛ちゃんという同性の友人を連れてきた事はきっと嬉しかったろうなとよく解らん視点で見てしまった。
たとえ君も同じなのだけど、2人はお互いの激しい所をお互いに知られる事を恐れている(たとえ君は強固な一面を彼女には見せないし親にも合わせない。美雪ちゃんも自分の欲求を彼に見せないし愛ちゃんとどんな関係になっているかを言わない)節があるので夢の中にいる2人がいつまでも幸せにやっていけるんだろうか、というソワソワ感がついてくる。
美雪ちゃんが愛ちゃんとたとえ君の家に乗り込んだ時、たとえ父に出された蒲鉾を気圧されて食べた時に、相手に出されたものを食べるという行為にまず屈して、更に食べ物と一緒に自分の言葉まで飲み込んでしまうというダブルパンチで何も言い返せなくなってしまった姿が、こんな家族関係があるなんてというショックも含めてとても痛々しかった。
その現実を受けて避難したホテルでずっと寄り添いたとえ君を励まし続ける事で彼女は彼女なりの決意を新たにしたんだろうな、と思った。
最終的にたとえ君の隣に自分がいなくても良い、と言っていた頃とは違う彼女になれたんだろうなと感じた。
彼女にとって、愛ちゃんはどんな存在だったんだろう。最初は求められる事に不慣れというか、されるがままだった美雪ちゃんが受け入れ、求めていく変化は愛ちゃんによって引き起こされたものに違いなく、その愛ちゃんに裏切られてた、利用されていたと知った時はとてつもないダメージだったろうし、それでも自分の悲しみや怒りを言葉にするよりも愛ちゃんの嘘の言葉による謝罪を咎めたのは聖なる力や…と感じてしまった。愛ちゃんもまさかその角度で咎められると思ってなかったろう。
知らない事で母性に見えていたものが、その難解さを受け入れた上で本当の母性に進化している感覚があって、彼女がどんどん神々しくなっていくのが驚きだった。
ラスト、手紙を読んで愛ちゃんが膝をついたのは、美雪ちゃんに赦され、心から受け入れられたと感じて彼女の中に神様をみたんじゃないかと思っているんだけどどうなんだろう。


【マジの余談】
僕はヘレディタリーやミッドサマーなど、アリ・アスター監督の作品がとても好きで、とは言えそれらと出会うまでそういう映画は特に観てこなかったので「急に好みが変わったのかな」と思っていたけど、人の心が歪むときに立てるギシギシという音を綿矢りささんによって高校生の頃から叩き込まれいたのだなと今作で納得がいった。
個人的には「ちいかわ」のナガノさんも別の角度からそれを存分に煽ってくる存在なので、ナガノさんをずっとアリ・アスター的に捉えていたんだけど、それすら綿矢さんから始まっていたのかと思うとマジでヘレディタリー状態。(良かったら観てください。意味が解って貰えると思います)
「高校生から始まってた、ってコトォ!?」と心の中のハチワレが映画開始早々脳内で叫んでいたことを忘れない様にここに書いておきたい。


何か他にも書きたい事が出てきそうな気もするので思い出したら追記しようと思う。


またー。

オンラインセミナーで投げろティーソーサー!

兵庫県立美術館ハリーポッター展を鑑賞しに行き、ローリングの走り書きのノートを眺めながら「中学生男子の英語のノートみたいな字だな」などと失礼な親近感を抱いた後、閑静な住宅地のロイヤルホストでたまの贅沢とアンガスビーフステーキランチを食べた。
ドリンクバーにしっかり魅入られているのでそちらも注文し、日差しは暖かいけども風が冷たくなってきていることを考慮に入れ、ホットのカフェラテを作ろうとマシンの前で待機していたところ、穏やかそうな老紳士がコーヒーを淹れながらこちらへ微笑みかけながら「ティーソーサーないねぇ」と話しかけてきた。
普段から全くソーサーを使わないタイプなので一瞬何のことか分からず、あたりを見渡したところ普段はマシンの横に積まれているソーサーがちょうど出払っているらしく一枚も残っていなかった。
「ちょうど無くなっちゃったみたいですね」と答えてその場をやり過ごした。
上位ランクと言えどファミレスはファミレスであり、ファミレスのドリンクバーでソーサーを使うなんてどんだけ気品溢れる地域なんだよと思いながら席に戻るついでにそれとなく周囲のテーブルに目を向けると、皆使ってる。
ティーソーサーを使って優雅にティータイムを楽しんでらっしゃる。
そりゃティーソーサー無くなるわ。だっておかわりしてる人たちはその都度新しいものを使っているのだから。1人1皿制じゃないんか、自分の家でこれやられたら洗い物に発狂しそうになるがこれがおもてなしってやつなのか、そりゃ食洗機が神器と言われる訳だぜ…と戦慄しながら席に戻った。
ファミレスのドリンクバーでソーサーを使う気品溢れる地域のロイヤルホストは居心地が良いと同時に自分の習慣が正解とは限らないことを思い知らせてくれる素敵なお店であった。


それはそうと、前職の同期から元旦に貰った年賀状の返事を今更書いている。
次の正月の方がもう全然近いのに何をやってるんだと自分でも思っているが、返事として投函したと思っていた寒中見舞いが使い終わって仕舞っていた仕事用のノートから出て来たので慌てて書いている。
出しそびれた寒中見舞いには「今年もお互い良い一年になるといいね。またコロナ落ち着いたら東京に行く事もあると思うし、その時は飲みに行きましょう」と書いてあって、今年一年の結果の全貌もボンヤリ見え始めてしまっているし、コロナは全然落ち着かなかったから東京にも行かなかったしで全く流用出来ないし、そもそも寒中見舞いの文言が印刷された葉書なのでどう足掻いてもアウトという事で適当なポストカードを見繕って書いている。
何か上手い誤魔化しはないかと頭を高速回転させるものの、何故かスギ薬局のポイント5倍デーの店内BGMが脳内で流れはじめ、現在スギ薬局がコラボ中のちびまる子ちゃんをキッカケとして幼少期から慣れ親しんだアニメと言えばランキングの発表会を催し、映えある一位は「悪魔くん」です!おめでとうございます!!まで脱線した所で誤魔化しようがねえと観念して正直に「出したと思ってたら出せてませんでした」と理由を記した。
正直が一番である、というか正直になんてやってらんない世の中だからこそ、こんなしょうもない事くらいはせめて正直でいたいという気持ちになった。
何でこんな事でそんな切ない視点を持たねばならんのか。
元同僚はとても律儀なので普通にまた年賀状を正月に送ってきてくれるだろう。
来年くらいはちゃんと年賀状で返事を書きたいなぁと感じた訳だが、そもそも自分からちゃんと出すという発想に至ってない時点でこれは繰り返すフラグなんじゃなかろうか…と今文章を書きながら感じている。
一抹の不安というか、その不安が百抹くらいあるので真空パックにして粉末緑茶みたいにスギ薬局の店頭に並べたい。ポイント5倍デーに財布の紐を緩められた誰かが買い取ってくれますように。


あと、とある取引先の弊社営業担当さんがわざわざアポイント取って会いに来てくれたんだけども、その理由が商品に関するオンラインセミナーのご案内と議題の要望のヒアリングだったので終始「これもオンラインでやったら良かったんじゃね???」と悶々としてしまった。
セミナーはzoomとか使うのに前段階で普通にわざわざ会いに来る意味とは?とずっと考えてて、仲の良い相手なのもあって帰り際にさも今思いついたみたいな感じで「あ、そう言えば今日のこれもオンラインでやれば良かったですね!」と笑いながら言ったら「確かに!!!!!」って顔して「本当ですね!!!!」って驚愕していて、あまりのド素直さに滅茶苦茶ウケてしまった。
初めてのLINEが届いたか不安で家の固定電話に電話してくるお爺ちゃんみたいになっている。
オンラインを活用していこう、みたいな流れの中でこういう妙なバグというか、これまでの慣習みたいなものが変に残ってしまって軽いボケみたいな機能を果たしてツッコミ待ちになってしまう場面に遭遇すると微笑ましいと同時に気怠さを感じてしまう。
まあ時間が解決というか、徐々にそういうものの数は減っていくと思うので今しか味わえない珍味くらいの受け止め方をするのが良いのかも知れないな、などと思った次第である。


またー。

砂の惑星に行って砂の城を作ろう!!キャンペーン

「DUNE砂の惑星」を観てティモシー・シャラメさんが美だった。美人とかじゃなくて美だった。

それはそうと、原作を未読なので物語のどの辺りまで来ているのか知らず、その美を超越する程に「え?時系列で1ヶ月くらいの話じゃない?こっからどう壮大なドンパチに発展していくの???」と気が気じゃない程にのんびりした200分越えだった。何かSFってもっとカメラをパーンてするだけで何年か飛んでるみたいなモノだと思ってたのでそんな所にびっくりしてしまった。いや、着実に、一歩ずつ積み重ねて行くことの大切さはチートや転生なんかには描けないポイントだと思うんだけど、まさか冒頭の西暦(なのかも解らない何かしらの暦)で10000年を超えていたテロップが最大瞬間風速だと思ってなかった。時の流れエグい、そんな先まで飛ばす?みたいな事を確かにそこで感じはした。飛距離とか言う次元の未来じゃなさ過ぎて実感が湧かないけど凄いとは思った。確かにスケールが違うぜ、と。
これで後編が1週間とかで決着ついてたら「やっぱ桁違いの未来は戦乱も凄いスピードで収束すんだなぁ」とか思うのかも知れない。
意味不明な事を言っているが、別に今作が面白くない訳では断じてありませんで、個人的には主人公の美さんもといポールの予知夢(これはネタバレでも何でもなく公式情報)への対峙の仕方が追い詰められる状況下で大きく成長していく描写が素晴らしくて、あ、これは良いぞ、凄く良いとなった。
予知夢について考える時、怖がり故のオカルト読み漁り経験から夢日記で自我崩壊みたいな所が出発点になる訳なんだけど、夢で膨大な情報を整理して、目覚める時には忘れている事で精神を保てる的な話を真っ先に思い出す。
その工程に逆らってしまうと抽象的な夢も含めて自分が生きる現実と段々境界が曖昧になって…という所に怖み成分が凝縮されていてウッとなってしまう。
その境界が曖昧になっちゃう要因に夢の出来事が起こるぞ、という恐れがあると僕は結論付けているので、美さんが予知夢にも葛藤して疲れ果てていく姿に心配と応援の感情を抱いてハラハラ見守っていた。
他方、遠藤周作さんの怪奇小説集の中に予知夢について取り上げている回が収録されていて、その中で「我々のみる夢は未来の自分を予見するものである」という記述があって、どんな起こり様のなさそうな事でも現実に起こる、みたいな事が書いてあったのを今作を観る直前にたまたま読んでいたので、その予知夢に怯え、苦しみながらも未来を変えてやる、切り拓いてやると立ち向かう美さんの姿に滅茶苦茶グッときていた。
予知の能力を持つ敵に、もしくは予知してしまった未来を変えようと立ち向かう作品は数多くあるけども、砂の惑星はそういう点でも色んな作品に影響を与えているんじゃなかろうか。
繰り返しになるけども、そこの描かれ方がとても良かった。
その他には個人的にはスターウォーズナウシカにも影響を与えた、みたいな節を大いに感じられる世界観や乗り物なんかもとても好きだった。
ナウシカって3割くらい砂の惑星だったんだなーと思いながら観た。
後は美さんが本当に美ですね。正装からコート姿からピタッとした軍用スーツというファッション的なバリエーションも、わーっと子供っぽい所から疲れ果て、絶望して、乗り越えようという表情面でも美で、あー凄い美だなと間違いなく思った。SFなのに滅茶苦茶顔がアップのシーン多いもん。折角の世界観なんだからもう少しカメラ引こう?美術スタッフ泣くよ?と思うくらいだった。
上映時間の多くがアップに費やされているのに満足してしまう美さんの美っぷりも是非浴びて欲しいところである。
後編が公開されるまでに原作も読みたい。


何かそんな感じだった。
何かそんな感じだったんだけど、途中で引用した遠藤周作怪奇小説集に登場する予知夢の話について、J・W・ダンヌという学者の著書「時間と夢」に記されていたと作中にあって、へー今となっては色々覆ってたりするんだろうけど読んでみたいなぁと興味本位で検索をかけても全然ヒットせず、検索ワード「ダンヌ 時間と夢」の両方を打ち消した上でGoogleが提示してきたのが「夢眠ねむのまどろみのれん酒」の番組公式サイトだったのが解せない。
「それは両方ないですねー…でも僕の勘がコレじゃないですかね?」と出して来たのが大好きなねむきゅんさんなの、全然ハズレでありながらも思考を完全にGoogleに把握されている気もして2021年も十分過ぎる程に未来だな、怖いなと思ったのでここに書いておきたい。
肝心のダンヌの著書「時間と夢」は、まあ遠藤周作先生の説得力あるフィクションに騙されたんだろうなと思う。
絵に描いたようなカモ読者に先生も喜んでくれていたらいいけれど。


またー。