性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

ボーと一緒に僕もおそれている(※ネタバレ有り)

179分という上映時間の長さと内容が濃淡把握出来ないまでも完全に悪夢であることが保証されている不幸の外貨積立保険みたいな存在感に気圧され出遅れること1週間ちょい、ようやく「ボーはおそれている」を観た。

何をとち狂ったのか午前休を取得して朝の9時から12時過ぎまで、資格試験か会社の研修かという拘束時間、同じ施設内では「ハイキュー!!」が上映されており、こちらだと179分あれば2回は観られるので「眩しくて楽しくて好きな相手に2回会えるのに、毎回徹底的に精神的に不安を押し付けられるのに大好きな相手に1回会うのを選んでしまうのか」と思いながらパンフレットを買った。

ハイキュー!!も早いうちに観たい。一番の推しキャラ(音駒高校の夜久選手。ちなみに二番手は烏野高校の月島選手)が活躍するのを大きいスクリーンで拝みたい、けど、今日はアリ・アスター監督が考えた最新の(発案含めれば最古らしいけど)歪な家庭のお披露目会に行く。毎度だけど全然ヒットしなさそう(実際は知らないけど)なので早く観ないと、と焦っていたので。

 


どんな映画なのかあらすじを述べると「ボーという精神的に不安定な男が母親死去の連絡を受けて里帰りをしようとするも不幸に見舞われ、どんどん追い詰められて行く」とう作品である。

ホラー的な表現も、スプラッタな表現もあまり無く、現実なのか幻覚・妄想なのかどちらか解らない光景にただ怯えて不安になるという怖さに満ちた179分で、全て事実だと認識している主人公のボーよりも受け手の方が自分なりにジャッジしながら観ていくことになるので忙しい作品なのかも知れない。

公開直後では全然なく、今更誰も探してまで読まんだろうという事で、これ以降はネタバレしながら雑感を書く。

ホアキン・フェニックスがコンビニまで猛ダッシュ!映画『ボーはおそれている』本編映像 - YouTube

↑予告

映画『ボーはおそれている』公式サイト|絶賛上映中

↑公式サイト


まず個人的に「ボーはおそれている」を簡単に言い表すとどんな紹介の仕方になるんだろうと思ったので書き出してみたい。

・魔法使いを辞める日

・こどおじの末路

・成長しない人間が向かうきさらぎ駅

・主体性のない母をたずねて三千里

・史上最悪のA Thousand Miles(ヴァネッサ・カールトン)が聴ける映画

こんな感じだろうか。

 


この物語はボーという男が住んでいる治安最悪な街から故郷へ辿り着くまでを描いているんだけど、パート的には「治安最悪の街」「幸せな家庭」「森の劇団」「実家」の4つに分けられるのでそれに沿って感想を書いていきたい。

 


<治安最悪の街>

自身が生まれた時の母と医師の会話を効かない視界でボーが聞いている様な幕開けは、最後は母の元に帰っていくからかな、と思いながら観ていた。179分も使われるとこの始まりを覚えていられるのかな、と思っていたけど、ボーという人間の抱える神経障害っぽい部分へのモナからの影響というのを徹底的に叩き込まれるので忘れずにいられた。全然有難くないけど。

ボーが長年頼るセラピストの診察を受けた穏やかで都会的な空間から家に戻るも、その家がある街が暴力と薬物が吹き荒れるとんでもない場所に住んでいるアパートがあり、中に入ろうとする浮浪者からエントランスへ走って逃げ込むほどの治安の悪さで普通に「何でこんなとこに住んでんの?」と思わずにいられなかった。

ゾンビ・ドラッグが流行っている街のドキュメントをたまたまYoutubeで観たことがあるんだけど、それに暴力性をプラスしたような街だった。

そこから「父の命日」というイベントを母のモナと過ごすために飛行機で里帰りする予定だったものの、出発の直前に玄関で忘れ物を取りに戻った隙に家の鍵と荷物を盗まれた事で頓挫してしまう所から物語が動き始める。

鍵を失ってしまい、建物の清掃、修繕などを管理をする男に訪ねるも「お前はもうお終いだ」と罵られる辺りにボーの酷い嫌われっぷりに、何もそこまでと思ったけどこれも後々に納得が行くので割愛。

帰省が出来ないとモナに連絡を取ると呆れられ、電話を切られてしまう。

焦りから処方された精神不安のための薬を服用しようとするも「必ず水と飲むように」と記載されているのに水が無く、鍵無しで外に出たら浮浪者やジャンキー達に部屋を乗っ取られ、外で一夜を明かすという散々っぷり。

単に不幸なだけかと思いつつも、善良ですよ、無害ですよ、と優しい口調でアピールするものの自分で何かを決める事が出来ず、場当たり的な行動に終始する姿が何とも痛ましかった。

母親にカードを止められていることをどうにかしてもらおうと電話しようとしている所で、中年男がクレカの管理を親にしてもらっていると言う事実にドン引きしてしまって、そんなだから管理の男性に嫌われていたのかと思ってしまった。

仕事をして金を稼いで生きている人と、親の管理でカードが使えて生活出来る人というのはあまりに同世代の関係として不味すぎる。

治安の悪い地域で何とか暮らしている自分の視界に仕事もせずのうのうと同じ建物に暮らしている人間がいたらどうなんだろう、と考えると嫌いそうなのも解る。

水一本すらカードで買おうとする所からして、家で食べていたレトルト食品や愛用しているデンタルフロスなんかも与えられた金で買ったのだろうなと予想出来る。

この歳までそういう取捨選択をしていない人間特有の純粋さみたいなものをボーから感じてゾッとしてしまった。

カードの件で電話した事で母が亡くなったと知り、最終パニックになって外に飛び出して車に撥ねられた所で最初のパートが終わるんだけど、出発もしてないのに家の前で車に撥ねられるっていつになったら旅が始まるんだよと観ているこっちも衝撃を受けた。

何かを決める事が出来ずに先送りする人にありがちな事の最悪級(最上級みたいな)な気がした。

 


<幸せな家族>

なんと車に轢かれて看病される為に搬送されるという方法で実家に向けて若干近付いたっぽいボーは、外科医のロジャーとその妻のグレースという夫婦に娘トニの部屋を療養場所として提供され、手当を受けるんだけど、もう病院じゃなくて家に運ばれている時点でこちらとしては「何か大きな陰謀に巻き込まれているんじゃ」というハラハラさがあって不安になった。

車で撥ねたという後ろめたさからくる善意をはみ出す高待遇(名前の刺繍入りのパジャマを用意されるとか)っぷりが不穏さに拍車をかける。

その状況を疎ましく思う娘のトニの視線と、亡くなった兄の戦友で精神を病んで同居しているジーヴスの攻撃性に怯えながらも身体を休めるボーが、トニに喋りかける時に異様に早口に優しめな口調になるところに異性との接触を絶ってきた人間特有のドギマギした印象を受けていよいよ「親の脛齧って引きこもりの中年」っぷりが際立っていてキツいものがあった。

グレースがボーは何者かに監視されているとヒントを送ったところから、ボーはやっぱり何かに巻き込まれていて、少なくとも夫であるロジャーはそれに関わっているのだと解る。

目的はこの時点では判然としないけれど、ボーはここを逃げた方がいいのだろうなと思っていた。

娘のトニが車でドラッグを吸わせてキマった状態のボーを友人に動画撮影させた後、学校の試験に落とされて絶望し、ペンキをがぶ飲みして自殺を図ったのが痛ましかった。

トニの口ぶりからして「ボーの動画を拡散したから消された」みたいに取れて、ボーを取り巻く大きなものが彼女の未来を消してでもその行動の代償を払わせたと感じて凄い怖かったし、ボーの感覚からするとトニは亡くなってしまっており、それがボーの勘違いだといいなと思うくらい個人的にはこの場面がショックだった。

彼女が最後に言いたかったのは「お前は何者なんだよ、何でお前なんかに私の人生を滅茶苦茶にされなきゃいけないんだ」という事だろう。一緒に死ねとペンキを飲ませようとしたのも、復讐に道連れにしたいという気持ちの現れだったのではと思う。

良心から危険を知らせていたにも関わらず娘の命を絶たれたグレースが不幸過ぎる。

関わらなければ失われなかったのがキツイ。

ボーはそこから逃げ出す為にガラスの扉を突き破って森へ逃げ込んだんだけど、口では帰りたいと言いながら行動に移さず、何か究極的に不利な状況になって始めて逃げ出すという行動スタイルをここまでで2回繰り返し、最後も気絶して終わるという共通点に「これはコント的に次もそうなるんだろうな」と思ってしまった。(し、実際そうなりました。悲劇と喜劇は紙一重ですか)

それにしてもガラスに突っ込んで走れるという痛みへの鈍感さがある割には刺し傷にはかなり敏感なので、道中の怪我には本人の妄想による誇張が含まれているのでは、ていうか見ている光景自体も妄想で上書きされてる部分があるのではと感じる様になった。(例えば住んでいる街の浮浪者も実際には2〜3人なのに何十人いる様に見えてるみたいな)

今後、色々解説など読んでいけば解るだろうけど、思ったよりも視覚的に騙されてここまで来てしまったのでは、とここらへんで凹んだ記憶がある。身構えて映画館に来た癖に結局しっかり掌の上で踊らされていたんだな、と。

何にしてもボーが欲しかったであろう幸せな家庭が結果的にボーが加わる事で崩壊してしまったのは物凄い皮肉だなぁとしんみりした。

 


<森の劇団>

グレースたちの家から逃げ込んだ森で、森の孤児たちという劇団の助けを受けるボーは彼らの演じる劇に自分の人生を重ねていく、んだけどこの劇の内容も途中から完全にボーの妄想の物語に取って代わられているのが解る。

彷徨う男が理想の村を見つけ、そこで働き、人を愛し、子供にも三人恵まれ、しかし天災に押し流され、家族を探して放浪する先に子供と再会するという物語が描かれたものの、舞台上で演じられていたのは「オズの魔法使い」の様な演劇っぽかった。

幸せな家族を目の当たりした事も影響しているのか、ボーの理想と「そんな幸せになれる訳ない」という自虐、そでもやっぱり自分に甘いのでハッピーエンドに着地したい、みたいな気持ちが見せた妄想の中で、性行為をせずに子宝に3人恵まれたという話に対して子供に「僕らはどうやって生まれたのか」と戸惑われていたのが何ともギャグっぽくて笑ってしまったんだけど、社会的弱者の童貞だからこそ描いた「小さな幸せ」が当たり前の中にあって割とマッチョな感じなのが生々しくてゾッとしてしまった。

30歳まで童貞だと魔法使いになれる、という日本のネットで流行っていたフレーズを思い出して、魔法使いだから性行為がなくても子供がいるんだろうなと勝手に納得してしまった。これは監督の意図と関係なく、僕がオズの魔法使いっぽい劇の風景から連想しただけなんだけど、結局この「30歳まで童貞だと魔法使い説」が一番しっくり来る作品になったと思う。

劇はグレースの命を受けてボーを始末する為に追ってきたジーヴスによって滅茶苦茶にされてしまうけど、ここでも留まっていたのを何かに追われる様にして逃げ出し、足首のセンサーが爆発して気絶という終わり方で「成長しないなぁ」と思ってしまった。(ボーはセンサーだとも爆発するとも思っていなかったろうから完全に僕の感想なのだけど)

 


<実家>

車が行き交う道路にでたボーはヒッチハイクで家に帰るんだけど、泥だらけで怪我をした男を乗せてくれる訳なくない?と思っているとあっさりと車に乗っている。

ここでミッドサマーの序盤でもあった景色が逆さに反転するモチーフが車の車体に映る景色で描かれていて、「あ、ボーはもう逃げられないんだな、クライマックス来るな」と思った。

ミッドサマーではその表現がされた場面が、知っている世界と踏み込んではいけない世界の境界線を跨いだ瞬間として印象に残っていて、要するに逃げ出せる最後のチャンスみたいな扱いで自分の中にあったのでそう感じたんだけど、実際はどうか解らない。(そもそもミッドサマーもそういう意味でその場面があったのか解らない)

でも、本人はそんな機能があったと知らないとしてもセンサーも無くなった、街の暴力からも解放されて自由になれるタイミングだったと思うけど、もう家に帰るしかないと思い込んでいるボーはすんなり帰っちゃうよね、という感じだった。

実家の葬儀の展示物を見ていると、ボーの生活が如何に母親のモナに管理されているかがよく解って、ここで全部種明かしを喰らった気持ちになった。

住んでいるアパート、使っている生活用品、食べているレトルト、全て実業家の母親が一代で築いた企業が関わったものばかりだった。

ロジャーもポスターに登場していて、生活だけでなく、この帰省自体もモナの手によって差し向けられていたことが解る。ここでこの映画のボスが母親であると解るんだけど、ボーはぼんやりした感じで眠ってしまう。

これは安置されている母とされる遺体が偽物(乳母のもの)と気付いて、母が生きていると思ったからなのだろうけど、それが明かされていない受け手からすると「自分の暮らしが全部母親の管理下だったことに気付いてるのかな・・・」と呆れてしまう行動で、勝手にもうどうなっても知らんで・・・と思ってしまった。

そこへ初恋の人のエレインが登場して、盛り上がってセックスして、エレインが突然死する。ボーは「セックスすると死んでしまう、父もそうだった」みたいな事を言っていたけど、実際は逆に女性側が死んでしまっていて、ちょっと仕組みが解らないけど、エクスタシーを感じた側が死んでしまう呪いみたいなものなのかなと解釈した。

そこへ母親が登場して自分の葬式で自分の寝室を性行為に使われた事を激怒していた。凄い登場の仕方だな、と思った。こんなボスの登場の仕方あるか?

ボーは母親が生きていると気付いていたからと言い訳をしていたけど、母が自分とエレインを引き合わせてくれる為に帰省させたかったのかとか都合よく解釈してセックスに応じたのかなと思うと気持ち悪さもあってキツい場面だった。

モナの言動を聞いていると、愛情を持って管理していたのに裏切られてばかり、今回しょうもない理由で帰省をしないで済ませようとした事でいよいよ堪忍袋の緒が切れました、という事なんだけど、心の病気もあり自身の後継者としても役に立たない息子を、だったらいつまでも純粋な子供のままでいてくれる様に育てましょうと裏で全て徹底的に管理してやろうというのが凄まじい愛憎と執着だなと思った。

アパートの管理をしていた男も、医師のロジャーも、セラピストの先生も皆モナが抱える従業員や協力者だった事を考えると、管理人の苛立ちも、ロジャーの受け入れ方も納得がいく。

夢で繰り返しみた屋根裏に男の子が閉じ込められる記憶は、屋根裏に閉じ込められたのが双子なのか本人なのか解らなかったけど、冒頭の生まれた時のモナと医師の会話から二人いる感じではなかったので双子では無く、今の視点の自分が過去の自分を客観視している描写だから二人いるように観えていたのかなと僕は解釈している。

その夢の先で監禁された父を見て、その部分の記憶を忘れようとしていたのだろうな、と思った。

その父が巨大な性器のモンスターへ姿を変えて見えたのは、理想の父ではないという否定の気持ちなのか、エレインを死なせてしまった呪いの生殖機能の源流としての憎しみなのかよく解らない。そこにジーヴスが飛び込んできて父へ向かっていったのはボーの妄想なんじゃないかと僕は思った。彼の勇敢さ、暴力性があればこの場を打開出来るんじゃないか、という妄想が見せた幻だと感じたんだけど、それも怪物に人間が勝つイメージを持ち合わせていないボーには意味もなくジーヴスは返り討ちに遭った、という所なのかと思う。

初恋の人は死に、自分の生活は全て母に見られていたと知り、父親は自分の理想の存在ではかった、頼れるのは母だけだと現実を思い知り、泣いて縋ったボーに母は激怒して人格を否定する様な言葉を投げつける。

これは「魔法使いである息子が、ユニコーンな存在である息子だから許せてきた事を、性行為という最大の裏切りで魔法が使えなくなった、潔白でなくなったのでもう許せません」という意思表示だったと思う。母親の支配の究極版の言葉選びにラランドのサーヤさん発祥「お母さんヒス構文」のW杯があれば代表に選ばれるほどの威力があるなと思って聴きながら背筋が寒くなってしまった。端的で、しっかり子供扱いしながら、絶望的に辛辣だった。抗争も起こらない程のギャングスタラップ、ぺんぺん草も生えねぇ爆心地。

その言葉に「僕だって苦労した(つもり)だ!」と逆上して母の首を絞め、すぐに後悔して「自分の中にいる悪魔が・・・」みたいなリアクションしている所がマジで想像上の引き篭もり中年の家庭内暴力過ぎて絶句してしまったし、あ、これは死んだわ、どう死ぬか解らないけどもう助かる未来が見えない、と観ているこちらが諦めてしまった。呪物対呪物のぶつかり合い、結果が明白なのを除いてそんな印象も受けてしまった。

本来ぼやかすべき所の解像度が天体望遠鏡みたいな監督なのでこちらも早々に諦めて耐ショック耐性を取るしかないというか。

ボーが「やってしまった、これからどうなるんだろう」と放心状態でボートに出て洞窟に入った先が大陪審員なのか観衆なのかに囲まれたドームで最後の審判を受けるというのは令和版トゥルーマン・ショーという感じで笑ってしまった。

過去の母親の愛情に対する裏切りを映像で振り返ったり、魚に餌をやるのに人間には善意を示さないと言われても何も言えないでいるのが正直ボーじゃなくてもその異様な状況下じゃ無理だろと思うけど、弁護側が常に他責だったのもボーが原因を外に求めて自分が変わろうとしなかったことが有り有りと感じられ、弁護側が強制退場させられて以降は何も自分では弁護出来ずにボートが転覆して映画が終わる。

これまで何もしようとしなかった、経験や成長を蔑ろにして生きてきた人が土壇場で一発逆転しようとかませる様な事は現実にはあり得ないんですよ、とわざわざフィクションで言い聞かせられている様で胃が痛むというか、肩がずっしり重い感覚になった。

自分だって今まで社会人としてそれなりにやって来てるので、多少なり意思と労力と責任を切り売りして社会に接して来たつもりだけど、自分なりにやっぱ人との関わり方とかに線引きして正誤を設定してる部分もあるから、それが世間とズレてたら結構怖いなぁとか考えてしまった。

ボーが転覆した事で照明が落ち、特に歓声に沸くこともなく人々がエンドロールと共に退出していくのはSNSの炎上が最悪の結果生んだ後の一瞬の静寂みたいで何とも言えない気分になったし、あの人たちは背を向けて帰れるのに僕はまだこれ観てないといけないのかという暗澹たる気持ちにさせられた。

 


<オマケ>

勢いだけで書いたせいで途中で入れられなかったんだけど、個人的な思い出によってハイライト級に怖かった所に触れておきたい。

劇中の<幸せな家族>あたりだと思うんだけど、旅立たないとなぁみたいな段階でヴァネッサ•カールトンの名曲「A  Thousand Miles」が流れていて、母親であるモナが黒幕として登場した時にそれが思い出され、あんまりの悪意あるマッチングにぶちのめされてしまった。

歌詞のスタートがダウンタウンから始まるところや「今夜あなたに会えるのなら私が1000マイルでも歩いていくのを」「だってとにかく違うの あなたの思い出の中で 生き続けるのであれば そこは私の居る場所ではないの」とか、甘くて真っ直ぐに相手を想う歌詞だった筈が、ボーだけでなくモナの視点が判明した瞬間に愛憎渦巻く悪夢の旅路っぷりしか思い浮かばなくなってしまう。

何てことをしてくれたんだ。この曲、アルバム買うほど好きだったんだぞ僕は。

Vanessa Carlton - A Thousand Miles - YouTube

↑名曲MV


それにしても毎作品、歪んだ家族像を通して、再生とか絆じゃなく単純におしまいを描いてくる所に知的とか繊細というのとは違う、剛腕っぷりを感じる。

ミッドサマーは新たな母(の様な存在)になるまでの目覚めの物語だったし、ヘレディタリーは家族を守ろうとしたけど家族ごと壊れてしまう母親の物語だったけど、ボーはおそれているは母のエゴスティックでマッチョ過ぎる愛情が家族を壊す物語だったと思う。

監督は母という存在に何を求めているんだろう。宇宙?

生まれて羊水から出てくるところから映画が始まって、最後が母の眼前で水に沈んでいく事で還っていく、とパンフレットに書いてあって、水を欲して水で破滅して怯えた記憶に紐付いた水に最後は還っていったボーはボーで期待に応えられなかったマザコンみたいな感じもあるのかなぁとぼんやり考えながら職場に向かったら、会社で顔を合わせる人が皆なんか自分のことをどう思ってるんだろうと不安になって最悪な気分で働くことになった。

薄々覚悟していたけど完全にスケジュールの立て方を失敗した。休んで帰って酒飲んで寝るべきだった。


モナの特別であれと願って手を尽くしてきた存在が呆気なく特別でなくなってしまった事の喪失感の強烈さを思うとボーに感情移入出来ない自分もいるけど、「愛は押し付け」と美しく説いてくれた「エゴイスト」とは真逆の超加害思考でゲームオーバー演出に持っていく姿はやっぱりボーを憐れんでしまう、何度ふりかえっても複雑な気分になって正解が出ない。

モナは全てを注いで息子にせめて完全な子供でいるようにと願い、ボーは母親に結局最後は何しても許してくれる、だって愛してくれてるもんねと縋ったのだと思う。庇護される事しか知らなかったからボーはいつも恐れていたし、遅れていたし、畏れていたと思うので、邦題が「おそれている」なのは日本語的の面白さを上手く使って指定しなかったのかなと感心したりして、悶々とした気を紛らしている。

マジで最悪だよアリ・アスター監督。ごちそうさまでした。次も楽しみにしてます。

でも今はすぐにでもハイキュー!!が観たいです。

『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』【公開直前PV】|2月16日(金)試合開始! - YouTube

↑最高!皆で観よう!


またー。

 


※解説、パンフレット、インタビュー諸々これから読むので全部ただの感想です。公式情報と食い違っていてもそういうものだとご了承ください。

ニベアに生かされた話。

日本は保湿大国だという旨のポストを見かけた。
確かにアメリカやカナダやオーストラリアやヨーロッパの方が乾燥している気がする。
日本のようにジメジメしていない(様に見える)ということは、乾燥しているのだろう。
翻って日本は湿度が高いという意味では加湿(と言っていいのか)が標準装備されているとも取れるのでカラッとした気候の土地よりも肌には良いのかも知れない。
では、その日本で乾燥肌として冬をサバイブせねばならない自分の肌は最弱の部類なのではと急に不安になってしまった。
別に海外進出する予定もなければ、肌が乾燥に弱くて困ることはあれど悪い訳ではないというのに、肌の強度ランキングで下位につけてしまうのではという事実に心がグラグラしてしまう。競争社会の奴隷としてやってきた影響がこんな所にも。泣いちゃう。
そんな自分がこの冬(というか毎年)お世話になっているのはドラッグストアで600円くらいの化粧水と、アクアレーベルのマルチアクアバーム(本気でマルチバースみたいでカッコいいなと思ってエヴエヴを観て以降買い始めた)、そしてニベアの青缶というラインナップである。
その中でもニベアの青缶との付き合いは長く、あぐ味さんの「ニベアに殺された話」を読んで衝撃を受けたのがキッカケで、それ以降ニベアの青缶に救われ続けている。
記事の日付を確認すると2013年の3月とのことで、そこからずっとニベアで顔面を保湿し続けている事になる。
http://sanpati-mike.jugem.jp/?eid=54#gsc.tab=0

本当に肌に合っているのかどうか、正直検証を経ていないので盲信的ではあるが、冬場は本当に助かっているので保湿という意味では疑いの余地がない。
美容アカウントの人には冷めた目で見られそうなので申し訳ないが、乾燥肌として潤いバリアを通り越して潤いの土手を作る、さながら保湿の公共事業、華やかさはないが確かに暮らしに息づいている、みたいな感じなので御容赦願いたい。


それはそうと、どんな音楽も誰かにとって優しく出来ている、と最近度々感じる。

僕にとってリアリティのない純恋歌とかも、僕に優しくはないが沢山の人に優しく寄り添っている。
それを無しにしてダサいとかキモいとかは無いよなぁ、と思う。
多様性の時代とか言いながら人の音楽の聴き方がどんどん狭い方へ行ってると、どんどん自分にとっての正解以外が間違いみたいな世界になってる気がする。
色んなジャンルを幅広く聴きましょうみたいな事ではなくて、自分の好み以外を大切にしている人がいると思えば済むだけの起きなかったはずの炎上が多いな、と感じている。
そういうを否定する人が多いシーンからは距離置いてく方がいいのかなとか思ってしまう時点で負けてるんだろうけど、別に競り合いたい訳でもないんだよなと寂しい気持ちになるなどしている。
これも誰かからすると勝手な発想なのかも知れないけども。


またー。

2024.02.11〜02.17の日記

02.11(日)

朝ランニング。

体力があればやり過ごせる事が多いという自覚が運動を促している気がする。

それが健康的な発想なのかはわからない。

昼から阪神タイガースのファンクラブ先行でチケットを購入した。

ファンクラブ先行なのに球団HPにすらアクセス出来ないくらいの人気。

自分が唯一入れ込む最大手が阪神タイガースなのでその人気に目眩がする。

散歩がてらコンビニに取れたチケットの払込みに行く。

9月のチケットがバンバン売り切れていて驚く。

 


02.12(月)

9時間くらいぶっ続けで寝ていた。

正月休みでもここまで長時間寝ていなかったと思う。

数年ぶりにミスドで朝食を食べたら美味しかったものの油の圧に驚かされる。

「母という呪縛、娘という牢獄」を読み終えた。

あまりに辛い積み重ねが最悪の結末になった事実から何かを学べたら、と言えるには時間が掛かりそうだと思った。

ただ、そういう感情を含めて自分で持っておくこと自体に意味があるとは思う。

 


02.13(火)

前日の長風呂で眼精疲労対策で頭皮を強くマッサージし過ぎたのかもみ返しで頭痛。

有り余っている有給を消化しても良かったけど、変に真面目なので出社。

 


02.14(水)

ユニクロで1990円のセール価格になっていたスウェットをずっと買うか悩んでおり、遂に購入。

そんな悩むような値段でもないのにずっと悩んでいた。

思っているほど着るのかとか考えていたけど、結果として10万円のスーツを買うより断然悩んでしまっていた自分が意味不明。

日常に戦争がなく済んでいることが幸運であるという自覚が増す。

ウクライナパレスチナの事を知るたびにそう思うし、ウクライナのドキュメンタリーを何本も見ている為に余計に感じる。

ただ、そんな理不尽な状況に陥った時に自分がどんな行動を取れるのかまるで想像がつかない。当たり前を作るのには膨大な時間がかかるのに、崩れるのは一瞬なのだと感じて絶望的な気分になる。

 


02.15(木)

リビアから船で脱出する難民の人たちを助ける団体に日本人の医師の方が参加されているのをドキュメントで観た。

誰かの権利を守る為に活動するなんて自分に出来るのかなと考えさせられた。

 


02.16(金)

友人と飲みに行った。お笑いや音楽の話など。

何故かNISAを長期保有しろと何度か言った気がする。

 


02.17(土)

朝スーパー。鶏ハムの仕込み。

久しぶりに昼寝をした。

歯医者の予約。

ジョニーデップとアンバーハードの離婚裁判におけるマスキュリニストの世論操作が及ぼした影響を知ると暗い気持ちになる。自由の国とか世界最大の経済大国とか色々な見方は勿論出来るけど、そんな国ですらネットで人を貶めることから被害者を守れないのだなと思った。プライムビデオの「THE POWER」がこういう状況へのカウンターを含んで制作されていたのかと改めて感じる。

陪審員制度の弱点を突く、暴力を振りかざす事で「自分もこんな目に遭うかも知れない」と思わせる最悪の手段だけど効果的な手段なのだと思った。

 

この日記から連想して短編を書きました。

アマノコウスケの日記①(2024.02.11〜02.17)|大きな小皿

またー。

肉寿司憎しの様相。

肉寿司のアンチは多い。ハンバーグ寿司や肉巻きおにぎりの誤訳のような存在だが、まあ加熱が重要なのかも知れない。
「この言葉も訳されれば本当の意味は伝わらない」とはヒグチアイさんの名曲『悪魔の子』であるが、そう歌われる通りに肉と寿司という本来美味しいもの同士の組み合わせを直訳した結果、ニュアンスが上手く伝わらなかった結果の産物の様な、そんな印象を肉寿司からは個人的に受けている。
海外のとんでも日本料理店の寿司やラーメンみたいな。
一方、ハンバーグ寿司や肉巻きおにぎりなどにファンは多い。語弊があるが、違いは加熱の有無とも言える。どうしてこう差がついた。
しかし、肉寿司にアンチが多いということはファンも多い可能性も当然ある。
あれだけ提供されるお店が多いのだから間違いないだろう。
それが伝わってこないのは、SNSには肉寿司に村を焼かれた人が溢れているからかも知れない。その火で加熱しろ、と憤り、寿司ではなく拳を握る人たちが。
一方で実社会生活においてはそうではなく、肉寿司のファンが多い可能性がある。
僕はミスチルやB'zのファンを公言している人と接点がないが、実際には全国にたくさんのファンを抱えるとんでもない人気アーティストであるし、肉寿司もそういうポジションなのかも知れない。
ファン層と活動領域が被っていないということはあり得る。昼職の人と夜職の人が朝の電車くらいしか接点がないのと同じなのだろう。
そもそも何故肉寿司がここまでの憎寿司としてアンチを抱えるに至ったのかよく解らない。諸説あるのだろうけど諸説=よく解らないと認識しているのでよく解らない。
恐らくネット上でこそ真の呼吸が出来るデジタル酸素吸引愛好家の層との折り合いが悪い事が最大の要因ではないかと予想立てているが、肉寿司にも悪いところがあるのではとも思っている。
単体で中々受け入れられない中、より高級感を出す為にウニを載せたことが悪手だったのではと僕は思う。
昨今、二階建てにして好評だったのはベッドとNISAくらいのもんである。それらですら上の段の冷房の効きが悪いとか、元本を割るリスクがあるとかで一定層アンチがいる。肉の上にウニなんて突拍子もない発想が、未だに就活には髪を黒染めにして地味なスーツを着せるような国に突然受け入れられる訳がない。
世間に定着するには時間がかかるのだ。
寿司そのものもそうだったように、肉寿司も「いや、こういうものなんで」と過ごしていれば自然と世の中に溶け込めたかも知れないのに、ウニの様に目立つものを載せてサラっと寿司感を向上させようとしてしまったのが悪印象になってしまったのでは、というのが僕の予想である。
早まったな、肉寿司。そんな風に思う。
あとは単純に居酒屋なのか寿司屋なのかよく解らない形態のお店であることが生粋の飲酒愛国者から煙たがられてる可能性もあるが、23時半、どうにも寝付けなくてぼんやりこれを書き始め、ようやく眠気の尻尾を掴んだ為、ここで終わりにしたい。
健康第一。おやすみなさい。


またー。

好きな歌詞に出会ってしまった時のリアクション王選手権

好きな歌詞と出会ったら皆どうしてるんだろう、とふと疑問に思った。
聴くだけなんだろうか。XやTikTokとかに登場させるんだろうか。
僕は聴いてみて、黙読して、読み上げて、歌って、最終何故こんなに好きだろうと理由を考えるという流れを辿る。文字にすると変に重みが生じて印象としては圧を感じるが、もっと感覚的にはライトにやっていると言って差し支えない。
そんな僕はここ2日、Uruさんの「アンビバレント」にもの凄くハマってしまって繰り返し聴いている。
薬屋のひとりごと」のオープニングテーマである為、完全に登場人物への当て書き(しかも2期の心の揺れにピッタリ)なんだけど、この曲はそれと同時に
引っ込み思案の根暗オタクの初恋としても当て書き過ぎるのでマジで凄い。
そもそもキャラクターが令和版暗黒微笑な所も相まって解像度が高過ぎる。
ちなみに暗黒微笑は「あんこくびしょう」じゃなくて「ダークネススマイリング」と読むと教えてもらったんだけど本当なんだろうか。騙されてる気がするほどに「流石にそこまでやらかしてねえだろ」な振り仮名センスである。あんまり過ぎて調べるのが怖い。
それはそうと、この歌詞をタイアップ抜きに読み込んでみると、自分からは話かけられない、上手く会話も出来ないから視線が交わることもない片思いを自分都合で美化出来てしまう思春期の恋愛観にピッタリなんである。
「碧い、碧い、その瞳に僕はまだ映らない 君は今日もいつもの君のまま 揺れる、揺れる、この気持ちはどこかにしまったまま 今はここでただ横顔を見てる」
もう、ほんとに、わかり過ぎる。
前後全てわかり過ぎるので一度過去の自分を振り返って物凄く落ち込んだ。
中学生の頃にこの曲と出会わなくて良かったとすら思っている。
こんな素敵な曲を「自分とあの子の事を歌ってる」と思ってしまったら最後、自分の作画が羽海野チカ先生になってCVも村瀬歩さんとかになってしまいそう。(ハイキュー!!の映画、いよいよですね)この曲に14歳で出会ってたらノートにポエムを数冊書いて自選のベスト盤とか作ってしまうくらい甘酸っぱくて美しい。
これが大学生になるとindigo la Endの「瞳に映らない」がこのポジションに燦然と輝く。この曲がリリースされる頃にはしっかり社会人だったので、その時もまたこの曲が大学生の頃になくて良かったと思っていた。
遡ると初めてこういう経験をしたのはスピッツの「運命の人」だったと思う。この時は子供過ぎて実感が伴う部分が少ないけど滅茶苦茶良い歌詞だと思うと国語の先生に言ったらガチファンだった様で「重なり過ぎて泣きながら聴いた」と明かされたという所に辿り着く。先生、僕もそうなっちゃいました。教育の敗北の可能性もあるけど、この上ない勝利ですね。
もしかしたらどの曲も本来の受け取り方からズレてしまっているのではという怯えもあるのの、結局受け手の性格でおかしなポイントでハマってしまう事もあると改めて思うと共に、単純にどの作品も本当に素晴らしいから重なるところを何とか探して重ねたくなるのだろうと思う。
そうさせる歌詞を生み出せるってマジで凄いなと思うし、人が書いた言葉に感動できる自分もまあまあ褒めてあげたくなる。
恥ずかしくて穴があったら率先して入ったらいいくらいの解釈ばかりしてしまうけれど、それでも良いと感じたその理由を自分なりに言葉に出来る人間でありたいなと思いましたとさ。


またー。

思い切ったオニギリ列伝'24

昼休みに外に出るのが億劫という理由で弁当を持参していたけれど、その弁当を作るのも面倒になった結果、おにぎりを握って持参する様になった、という話を何度かこのブログに書いている気がするが、性懲りも無くまた書きたい。
芸人さんが同じ話題を繰り返す事を「擦る」と言うが、僕もおにぎりの話を擦りに擦りたい。
擦った摩擦で火を起こして焼きおにぎりにしたいので、そのつもりで書き続けたいと思う。
弁当からおにぎりになった場合に食事としてのボリュームが減って少食になるかな、痩せちゃうかな、と心配していたけれど、おかずが無くなった分だけ米で満腹感を確保しようとおにぎりが大きくなり、おかずから米へ置き換わっただけで体重はまったく増減しないでいる。(炭水化物のみなのに増えずに維持できているのは、それはそれで人体のバグという気がしているが不問としたい)
おかずで米を食べる、という関係性についても塩昆布のおにぎりをおかずに塩のみのおにぎりを食べているという狂気の構図が補完しており、言葉にするとほんの少し狂気を帯びている気がする。
世の中の妖刀とか呪物の類も、始まりはこういうささやかな狂気から始まり、チリも積もれば的に効力を増していき禍々しさを手に入れたのだとしたら、これは何かの始まりに過ぎないのではないかと思わなくもない。
それはそうと自分が握るおにぎりが大き過ぎるせいで、コンビニのおにぎりが小さ過ぎる様に見えてしまう。

標準品に比べて増量し、大きさを売りにする商品でさえも小さく見えてしまうので、涙ぐましいマーケティング、コスト管理、商品開発がこちらの責任で簡単に消し飛んでしまっている。美味しく満足してもらえる商品を沢山の人に届けたいという希望を無慈悲に打ち砕いている光景は、極限まで薄めた進撃の巨人のようである。
進撃の巨人のアニメ、完結しましたね。観ましたか?
あの終わり方も、原作の終わり方もどちらも凄く感動しました。
原作の頃はコニーやジャンに、アニメではリヴァイさんやハンジさんの様な上官の人たちに感情移入していた自分の受け取り方の差について結構長い時間考えたりしたものだけれど、その終着点がおにぎりだなんて事になってしまって申し訳ない。
人類は過ちを繰り返してしまうということを我が身をもって体現してしまった。残酷な事だと思う。
でも、おにぎりを握る暇がなかった時にコンビニで買うとサイズの小ささを美味しさが圧倒的スピードでぶっちぎって行くので、コンビニのおにぎりを否定したい意図がない事だけご理解頂ければと思う。
コンビニのおにぎりは美味しい。
これまでの長文は忘れて(どうせ頭に何も残ってないでしょう)、コンビニのおにぎりは美味しいよね、ということだけ共有出来れば幸いである。


それはそうと、セールで1990円になったユニクロのスウェットを買うかどうかずっと考えているのに、たまたま立ち寄ったバレンタインフェアで2000円のチョコレートを即決購入している自分の価値観ってどうなっているんだろう、と悩ましいこの頃である。でも高いチョコレートは美味しいから2000円の価値はある。ただスウェットにも間違いなくちゃんと価値があるのにね、という。
コンビニでは新商品よりもプライベートブランドの安いお菓子を選んで買うのに、ZARAなどに安くて良い香りの香水があってもシャネルのパルファムを買っている。この差は何だ。
優先順位と言えばそれまでなんだけど、振り返ってみると自分でも「うわ、思い切ってるなー」と感じることを度々やっているので、人間というのは自立しても自律出来るとは限らんというか、自分でもコントロールし切れていない部分が周囲からして個性だったり、案外面白さとして扱われていくのかなと思ったりしている。
自分については割と引き気味で反省をつらつらと重ねてしまうけれど、人が同じことをやっていると好感と共感を伴ったりするので自他のどちらに甘いのかみたいな尺度でもこういう話題は参考になるなぁ、とボンヤリ考えている。
一体何の話だと思われるかも知れないが、ただそう感じたことをすぐに忘れてしまう自信がたっぷりあるので、せめてどこかに「こう思ってたらしいよ」と書き残しておきたかっただけである。
巻き込んでこの結論のない話を読ませてしまった人がいたら申し訳ない。
世の中って理不尽で溢れてるから、そういう時もあるよね、と慰めの言葉をかけて謝罪としたい。
ごめーんね。


またー。

2024.02.04〜02.10の日記

02.04(日)

朝ランニング。スーパーで買い物し、鶏ハムを作る。

AmazonプライムビデオでA24が関わっているオリジナルのカートゥーンアニメを見始める。その国の常識と世間一般の良心を照らし合わせると後者の方が突拍子もなく感じる、みたいな作品で中々えげつないなと思った。

ヒグチアイさんのライブに行く。

彼女の曲よりも先に吉住さんのラジオで語っていた言葉から入ったので物販でZINEを3冊買った。ライブで紙だけ買うのは生まれて初めての経験だった。

言葉から入って、そこに絶対の信頼がある。曲も凄く良いので言ってるうちに追いついて来そうではある。

ありそうでなかった明るさと、カウンターがベースの鋭さを感じる。

あくまで自分を通してのみ見ている表現に大いに励まされるし、心からの頷きを返しながらライブを満喫した。

レコ発なので新譜中心の構成だったけど、そうでないライブも観てみたいと思った。

伊藤大地さんを久々に観た。人生で一番遭遇率の高いドラマーは彼かも知れない。

そして、いつ観ても紹介されるより先に伊藤さんじゃない?と思うのは凄い。

同じマンションの住人を外で見かけたくらいの気軽さで接するのは申し訳ないくらい好きな人だ。

 


02.05(月)

客先で強風と雨に降られて疲れた。

 


02.06(火)

帰りの駅で突然見知らぬ女性にリュックの肩紐を掴まれてビックリした。

改札から駅に入ったばかりだったけど、痴漢冤罪やセミナーやマルチの勧誘が頭を過ぎった。

執拗に「待ち合わせてますか?」と聞かれて、予定はなかったので正直に「してないです」と何度も答えるうち、とりあえず冤罪の線が消えたのもあって少しホッとした。

恐らくマッチングアプリの待ち合わせをすっぽかされたのか、アプリの写真が自分に似ていたので「こいつだろう」と声を掛けたのだと分析した。

滅茶苦茶怖かった。立場が逆なら即通報だと思うんだけど、この怖さが人に正しく伝わる気がしない。

人違いで襲われたり、晒されたりする事もあるのかなとか、誰か僕に敵意を持っている人が僕の写真でアプリに登録して嫌がせしている事もあり得るのかなとか、そういう事を考えながら帰った。

 


02.07(水)

他支店の自分と同じ仕事をしている部署の仕事の効率が壊滅的なので激怒している。

機会損失でビルが建つ、という次元で、いや寝る間も惜しんで働けなんて絶対思わないけど、普通にやってりゃもっと楽に進められますよね、定時で毎日帰りませんか?というのがあって、そういう楽して稼げるバイトないかなぁみたいなムーブでいられるのが羨ましいやら腹立つやらで困った。

 


02.08(木)

人に苦言を呈するのが苦手だし、人を怒るのも苦手だし、人に怒られるのも苦手なので前日の件を優しく伝えるのに苦慮した。別に得意な人なんていないだろうけど。

 


02.09(金)

日記書かず.

 


02.10(土)

世界一美しいと言われる庭で暮らす絵本作家の人がアメリカにおり、その中で暮らすってどんな気分なんだろうとぼんやり考え続けた。

この話をした時に「じゃあ、その人はそれ以上に綺麗な景色は見られないって事だよね」みたいな事を言われたことがあって、美しさが一つしかないのは寂しい話だなと感じたのも思い出した。

少し遠い距離を歩いてロイヤルホストに行った。

道中、梅が咲いていた。

ユニークな施設名や店名の看板を見かけると、何故そうなづけたのだろうと考えてしまう。

 

この日記から連想して短編を書きました。

ミスマッチング(2024.02.04〜02.10)|大きな小皿

 

またー。