性格の悪そうなBLOG

いちいち長いですが中身は特にないです。

続く事に無頓着な僕に何が始まるんだろうか問題。

名探偵コナン展に行ったら懐かしい場面が沢山あって、その大半が殺人事件の犯人によって彩られている事に気付いて大分ホラーだった。とは言えちょうどお盆休みなので少しずつ読み返している。大人気犯人の図書館の館長より先に平次くんが登場していた事を再認識させられ、なんやて…である。各種人気(?)の犯人のセリフをカルタにした呪物の様な代物を物販で買った。呪われた日本人形よりも呪力が高そうなので魔除けと称して枕元に置いているが、2週間足らずで2度悪夢をみた。


長期休みに突入すると毎回ちょっと重めのテーマの本を読むという習性、もとい癖がある為、今回のお盆休みにも何かそういうシリアスなテーマの本を購入しようと企んでいた。夏になると怖い話を欲する人たちの事を身近に感じているが、相手側からすると一緒にされたくないだろうな、と思う。風情の不足というか。

ただ、日頃の仕事があんまりに忙しく、避難という言葉がすんなり添えられてしまうほどだったのもあり、管理職人生ここに極まれり、歳を取ると責任を金に替えてやっていく他ないんだし…という控えめな絶望に憑依されていたのもあり、単純に自分の想像出来る範囲内での先輩は自分の加齢をどう捉えているんだろうかという興味により選んだ一冊がphaさんの「パーティーが終わって、中年が始まる」というエッセイだった。

米軍のマーケティング、地方消滅、薬物ルポなどなど、直近の長期休みを盛り下げたテーマからすると一見ほんわかした風にも感じられるが、手を伸ばしても微妙に届かないくらいの距離の先輩から「俺、もうボーナスタイム終わってるかも」みたいな話を聞かされるのは別ベクトルの恐怖がある。そう身構える内容ではないんだけど、コミュニティーの中でうまくやれている人以外が聞くと随分な威力がある。あまり線引きをするべきではないけど、都市部に住む30代で交友関係を広く維持していない人にこそ刺さるどころか突き抜けて向こう側が見えてしまう気がする。向こう側を見る事で心の準備が出来るし、漠然としたものはそのままでも肩の力は少し抜けるので、激痛足裏マッサージみたいなものなのかも知れないと今は思っている。

phaさんがこれを書いたのは40代頭から半ばにかけて、都市部で一人暮らしをしている男性の若かった頃と現在を見比べた時の気付きが綴られている。

元々インターネットで面白い事をしようぜ的な流れから活躍の場を広げられた方との事で、ちょうどブーム的に終焉に向かっていた時期に新参者として読み漁っていたテキストサイトの雰囲気が文体に残っており、懐かしさと親近感もあってスラスラと読むことが出来た。昔はこんな面白い文章を綴る人がゴロゴロいたんだよなぁ、どこに行ったんだろう、と思ったけれど、読み進めて彼らがそれぞれの生活に進路を変えただけで、自分がぼんやりと元の道を歩いているだけかも知れないと感じた。

これまでの人生で抱えてきた歪みからも歳を重ねて成長すれば解放されるだろう、という淡い期待について率直に「これからも振り回され続ける、それが人生」と言ってくれて、あぁ大人になるって解放されるんじゃなくてむしろそう言う事に気付いて「じゃあどうしようかなぁ」と考えたり出来る事なんだなと思えた。

きっと凄いなと感じる周りの大人たちも解決出来た事ばかりじゃなく、諦められた事もたくさんあるだろうに、凄い大人にそんなんある訳ないしそれに比べて僕は…なんて言ってる暇があるなら自分の取捨選択をやってみなきゃなと思った。

どこか違う場所で違うことをすれば新しい自分と出会える、なんて願望を心のどこかにずっと持ち合わせていて、こんなのインド旅行論者と何も変わらないし、そりゃ30代に異世界転生流行りますわと反省した。自分があまり異世界転生を楽しめないのも、ある種の同族嫌悪なのかも知れない。面白くないなんて事を言いたいんじゃなく、自分の嫌な部分が刺激されてしまうのを無意識に恐れて避けてきているんだと言う意味で。

「中年の不要な存在感」というフレーズも近い将来の自分を想像する上でかなりの痛みを伴って響いた。年々、自分が思っているよりも社会の中で自分の存在感は増していると感じていた。威厳や影響力じゃなくて、鈍く、重く、認知されやすくなっているだけ。俺でなきゃ見逃しちゃう手刀だった20代から、ハエが留まりそうなパンチというか。

ステルス性が下がって「普通」という評価を得られるハードルが徐々に高くなっている自覚は管理職に就いた頃からあって、大してそこから成長していないのに、それを毎回冷静な顔で飛び越える事を合格点として求められ続けている。

日々、やるべき仕事や家事に真面目だけど、本当にやりたいことが何なのか分からないし、探す体力もない。その言い訳に真面目であらんとしている。

最低限だとしても褒められた事ではあるという一点に縋って、それを完遂しようとしてきた気がする。

自分で自分を褒めたい気持ちは素晴らしいと我ながら思うけど、もうちょっと目的を考えたらいいかもなぁ、と肩を落とした。

これからの立ち上がり方に期待をかけて、ちょっと汗かいても頑張りたいものだなと同じくらい思うけども。

著書をたくさん出版されている方に失礼かも知れないけれど、文章を書く事についても凄く自分と重なる捉え方をされていて、「文章にはリアルタイム性がないから満足いくまで治せるという安心感がある」と述べられていたり「誰かが面白いと思ってくれたらいい、あわよくばチヤホヤされたい」的な事を述べておられて、mixiや複数のブログに場を変えながらも毎度延々と大学生の頃から日記帳に書いていれば良いことを書き続けている自分のスタイルと重なる部分があって「先輩、マジ解るっス」と手を挙げざる得ない。完敗だ。

随分とつまらなくなったSNSを未だに普通に覗いてしまう事も「Twitterは人間の怒りや嫉妬と相性が良すぎた」という話に共感出来た。

問題は起こらない方がいいけれど、誰かが怒っているのをみて自分より人間らしい人間がいる!と安心できてしまう側面もある。

自分自身が社会の中で怒る事も随分減ったけれど、これも場面によれば自身が怒られる側に立つこともあるという社会の一員という自覚からくる諦めによる所が大きい。そこも後書きで記されていて、最後まで自覚させてくれてありがとうございます、と感謝と皮肉が混ざった気持ちで読んだ。

これだけの事を言語化出来るというのは専門的な事柄について語るよりも遥かにエネルギーを使うだろうし、格好がつかないのを厭わないというノーガードっぷりには畏敬の念すら覚える。良い先輩に出会えたな、という感じである。

大人って自分が思っているより更に地続きなんだなと再認識させられる本で、エッセイというのは毒にも薬にもならないんじゃなく、毒も薬も自分で選んで続けていくためのものなのかなと考えさせられる一冊だった。


ちょうどトリプルファイヤーの新譜「EXTRA」がリリースされてずっと聴いているタイミングでこの本を読めたのも良かった。

鬱屈した憤りがキャリアを重ねるごとに生々しく酒の力を借りる様になっていき、ここ数作品、どんどん声量が上がっているのが滅茶苦茶面白い。

複雑さを極めることでどんどんユーモアの扉を自作して開け放ってくる楽曲が緻密なコントめいているのに、そこに乗せられる歌詞が酒だの陰謀論だのバイトだのでおかしなギャップが生じているのが今回も凄まじい。どっちも表現として鋭すぎる。

冒頭の2曲は酒がないと力が出ない男を主人公にしたアルコールロックオペラめいており、終盤でも相席屋との距離感を描いているのが本当に良い。怖いくらい良いし、怖いから良い。

学校に居場所を見出せなかった作詞を手がけるボーカルの吉田さんの名言「塾での俺が本当の俺」が大人になっても何も変わらず「酒を飲んだ時の俺が本当の俺」と歌ってくれるこの感じはphaさんの本と同じくらいに「人生は続いてくし、人はそう簡単に変わりません」と言ってくれている気がして、僕にとって謎の相乗効果を生み出している。

どうにかやってこうぜ。(自分に向けて)


またー。